ことばをうたがう
マンゴーをいただいた。
食べごろのを二人でわける。
私は種のところをいただく。
幸せすぎて言葉にならない(笑)
↑これはスイカ。
学校とは怖いものだと私はいつも思う。
親同士の会話でも、まるで「ここは学校か?あなたは先生か?」というような発言がたくさんみられる。
「あの子はやる気がないから」「努力しないんだよね」「友達が少なくて」
親の、子どもに対する評価や見方は、ほぼ「学校の価値観通り」になっていて、その親自身の考え方や価値観は全く反映されていないように思える。
もし、上記のような言葉が、親の本当の気持ちであるとしたら、もっと怖い。
学校の洗脳としか思えない。
子どもに対しては、そのような評価をしておきながら、自分のことになると「宿題嫌だったんだよね」みたいな話が出てくる。どうして子どもと同じ目線になれないんだろう。「私もそうだったよ」と言えないんだろう。
こういう話をすると「寄り添うってことだよね」と言われるが、そういうテクニックを言ってるわけじゃない。
子どもに同情したり、共感することがない、という事実に私は勝手に驚いているだけであって、頭で考えて寄り添うわけではないから。
学校がどれほど理不尽で、変な思想を教え込んでいるか。
それが見えていれば、子どもに問題があるのかどうかわかると思う。
親は、教師の代弁者ではないと思うのだが、どの親も、「先生に従っていれば間違いない」と思っているようで、同じような言葉づかいで子どもを裁いてしまっている。
自主性、思いやり、努力、やる気・・・
これらの言葉のどこに「わかりやすさ」があるのだろう。
全部、適当で、解釈次第でどうとでもなる言葉。
先生が子どもを「指導」するために、雰囲気で使う言葉。
夢を持て、も同じだしね。
子どもに対して「思いやりを持て」と指導する前に、教師は生徒に思いやりをもって接しているのかどうか、疑ったほうがいい。
親も子供に思いやりを持っているのか、隣の人に思いやりを表しているのか、自分ができないことをどうして子どもに言えるのか。
わたしはどうしてもそれが腑に落ちなくて、今の今まで生きている。
親も教師も人間なのに、人間同士の会話になっていない。
具体的に何かが言いたいのに、それをごまかすために、抽象的な言葉を使ってる。
「先生に優しくしてね」→「思いやりを持て」
「将来何になりたいかを言ってくれないと先生困っちゃう」→「夢を持て」
「マンションが同じなんだから、あの子と仲よくしてくれないと親である私の印象悪くなるのよ」→「誰とでも仲良くできる子になりなさい」「どうしてコミュニケーション下手なの」
まあ、こういうこと。
ざっくりふんわりした言葉を使うと、自分をごまかせる。
本音を隠しておける。
だいたい「思いやり」なんて、学校の教師の間でそれが本当に行き渡っていれば、言葉にしなくたって子どもは真似るわ。
家族の中で思いやりが普通だったら、何も言わなくても相手を思いやるよね。
それが「ない」から子どもに期待して、子どもにさせようとする。としたら、ほんとにずるいんじゃない?
「思いやり」のない世界の中で、「夢」も「希望」も中途半端な大人に囲まれて、「やる気」じゃなくて義務で仕事しているそばにいて、「友達づくり」よりも「マウンティング」にいそしんでいる親の中で、まるで見本のない「頭の中で作り上げられた理想」の人間を目指すように言われてる。
一度、その中途半端な言葉を使うのをやめてみればいい。
「前向きに生きてほしい」とか「やる気になって欲しい」とか、もうそういうの、やめたらいいと思う。
子どもが生きづらいのは、子どもが「おれなんて」「わたしなんて」と言い出すのは、大人がそうやって「勝手な理想」をでっちあげて、自分にはできなかったことを子どもにさせようとして、抽象的な言葉で洗脳したから。
あり得ない理想に「ならなければ」と潜在意識で子どもたちは脅迫されてる。
生きづらくて当たり前だと思う。
我が家の子ども達は、宿題ができなかろうが、ご飯が食べれなかろうが、眠れなかろうが、悩むことはない。だって、そんなことで責めたりしたことがないから。
「これが理想の状態だからね」と押し付けたことがないから。
眠れなければ眠れないなりに、食べれなければ「おれ、省エネモードみたい」って言ってるし、自虐さえしなければ、人は淡々と生きていける。
前向きじゃなくても、夢なんてなくても、ええんやで~って私は思うかな。
ってか、心に前も後ろもないな~。人生にもないな~。
誰が考えたんかな「前向き」って。どっちが前やねんってね。
変な言葉に縛られないように生きていければいい。
親や教師から与えられた言葉をすべて疑うとこからはじめればいい。
人生はそれから。