蹴散らして進め
今日は息子の入学式でした。
最後の入学式になるのかな。
出席できなかったけど。
真新しいスーツを着て出かけた彼は、新しい世界に向かってゆくのだ。
私の育ちが特殊だったのかわからないが
常に大人の目が注がれていた。
小さい頃から、わたしに対する大人たちの願望は大きかった。
故に、わたしはいつも寂しかった。
私自身のことを誰も考えていなかった。
「理想の娘でいてくれること」「出来のいい孫として存在すること」「教師にとって都合のいい生徒であること」が私の役割であり、私を通して自分の願望をかなえようとする大人たちに囲まれてとても寂しかった。
母親にとっては「進学校に合格させた親」になるための「わたし」であり、祖母にとっては「教えた書道でいい成績を取る私の孫」の「わたし」であり、父親にとっては「女性らしくない、理想の娘になってくれない困った子ども」であった。
誰の目にも、「わたし」はいなかった。
誰も私を見ていないことに気づいた私は、「あなたの理想ではありません」という姿を証明するのに必死になっていった。
大人たちや、妹や弟からの「あなたが理想の姿でいてくれないと困るんです、嫌なんです、ちゃんとやってくれないから嫌われるんですよ」という視線を蹴散らしていくことが、私の生き方になった。
そして、私は、人の本質を見ていきたいと願った。
人はとても勝手なのだ。他人に理想を求める癖に、自分だけは「人間だから」と言う。
教師がもっともそういうことをするのだから、子どもがぐれるのは当然だ。
中学生になって最初にやったのが「長女やめます」だった。
それから「お茶くみやりません」もやったし、「教師になりません」と母親の理想を蹴って嫌われたこともあった。
だから今でも、「理想を押し付けられる感覚」はすぐにわかる。押し付けている側の人間は全く自覚がない。人をロボットのように動かそうとするのは、圧倒的に教師が多い。自分で動かず人にやらせる。そして、結果だけを欲しがる。
子どもを口先で動かそうとして失敗する。でも、自分が原因だとは思わない。子どもがおかしい、子どもが○○だからだと子どもに原因を押し付けて、教育関係者に「口先で子どもを動かす技術」を学びに行く。
誰かを動かすのは愛だけだと思う。
言葉でもなく、態度でもなく。
今も私は、監視されることを好まない。理想を押し付けられることはもっと好まない。
完ぺきではないし失敗するし、だからこそ、人に寄り添う人になれると信じている。
不登校の子どもや、子育てに行き詰っている親御さんの話が聞けるのは、私が完璧だからではなくて、失敗だらけの人間だからだと思う。
理想を蹴散らして生きてきたからだと思う。
「あなたの思うような人間にはなりませんことよ」
昔の失敗は、何より「理想の逆を生きたい」と思っていたことで、それが自分にとって心地いいかどうかに目を向けなかったことだと思う。
今は違う。自分の心地よさを優先し、やりたいことをやっていく。
私に向けられた言葉というものは、発した人の願望がほとんど。
だから、自分自身がそれで傷つくことはない。傷つけられるはずはない。
言葉を失った時、愛だけが残る。
世の中が求める理想など、蹴散らして進めばいいよ。