風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

封印した感情について

おはようございます。

ふと、見かけたツイートに反応してしまいました。

これは、書いておかなければなあと。

 

子どもの頃に、肉体的虐待を受けた人は

痛みを痛みと感じなくなると言います。

それは、スピリチュアルで言う「痛みに感情を入れないでいると痛みを感じない」レベルなのでしょうか?

それは違うような気がしますよね。

痛みを痛みとして感じられなければ、動物としては致命的ですものね。

 

そして、痛いことを痛いと言えるようになることが回復になると思います。

 

わたしは、「寂しさ」を感じないようにして生きてきたんだなあということを

思い出しました。

寂しいという感覚を、最近ようやく感じられるようになったのですが

それでもまだ、別にどうでもいいと思っている部分があります。

 

 

ここからが本題です。

 

痛みを麻痺させた人に対して「ほら、痛いでしょ、痛いって言わないと助けてもらえないよ」というカウンセラーがいるでしょうか?セラピストがいるでしょうか?

痛みを感じられるまで寄り添い、感じられたことを一緒に喜ぶのが支援者じゃないかなと思います。

 

けど、私の寂しさに対して「本当は寂しいんでしょ、寂しいって言わないからいつまでもあなたは変われないんだよ」とまるで自己責任であるかのように責められたことが、私は何度もあります。

 

形を変えたいじめだね。

 

ほら、痛いって言わないから~あなたは幸せになれないんだよ~って責められるの、どうですか?

 

寂しさを感じてしまうと生きていられないから封印したのに

そしてまた、付き合ってくれるつもりもない人が「寂しさを感じろ」と強要してくるあたり、悪魔みあります。

 

我慢しているわけじゃないんですよ。

それも、痛みを封印した子どもと同じ。

もう我慢とかそういうレベルではない。

 

そういうことがわからないなら、セラピスト名乗らなくていいと思う。

 

っていう怒りが(笑)

 

ひとりになってから、本気で自分自身に取り組んでいるのですが

私には「感情を感じてよい」というセンサーがあまり働いていないことが

わかりました。

他人に対する感情がわいてくると同時に危険信号が点滅する。

喜びも悲しみも寂しさも全部です。

本当に安心した時にだけ、感情が素直に出る。

そんな安心した環境は、ほとんどなくて。

ひとりでドライブしている時~とか、恋人と一緒にいる時(少しの間)とか。

 

感情を素直に出せる環境で育った人や、大人になってそれが許される環境に行けた人には理解できないのかもしれないです。

 

悲しくても怒ってても、なにひとつ家族に通じなかったのですから

仕方ありません。

 

そういうもんだと思って育ちました。

 

泣いたりわめいたりするほうが、女として可愛いんだよ、とか言われても

知らんし。

 

抑圧されたものは、別の所にいらんパワーとして出現するのは

何も特別なことではないでしょうし。

 

そして、こういう自分を全部許して生きていきたいなあと思っているところです。

「感情を素直に出さない自分はNG」と自分を裁いてしまう癖もついてしまったので。

本当は寂しい癖に、と言われることが悔しくてねえ。

 

捻くれてるから愛されないってのは

あなたがひねくれてる人を愛せないだけなんだよね。

 

わたしはひねくれてる人を愛せるよ。

 

その人を、自分の思い通りに正す必要ある?

幸せそうにふるまわせる必要ある?

それより、その人そのものを認めて愛せないなら、何も言わないで。

 

「幸せな人生警察」いっぱいいるよね、この国には。

 

人を幸せにしたいんじゃないんでしょ。

人の人生に首突っ込んで、自分が幸せにしてやったと思いたいんでしょ。

 

ずいぶん痛い目にあったなあと思い出したことと

最近、「素直になれ説」が幅を利かせているのでそれどうなのと思って

書きました。

 

素直になれない男性を受け入れる女性もたくさんいるんだからさ。

素直じゃない女性を受け入れる男性もいるよ。

決めつけないほうがいいと思うよ。

 

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