風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

うらやましさとねたみと

おはようございます。

静かな土曜日です。

東京はなんだか急に街に人が増えたとか?

住んでいる場所は子どもの声もしなくなりました。

 

*****

 

☆このブログは、思い付きの書きっぱなしなので

そこのところ、よろしくお願いします☆

 

自分を見直す時期なので

様々なことに気が付いていきます。

これ以上、今までの人生をやりたくないので(笑)

けっこう必死です。

 

そんな中、今朝はまた、大きな気付きを得られました。

詳細は書けませんが、お題にした「うらやましさとねたみ」についてです。

 

人間は比べるために生まれてくるのか?と思われる部分があります。

親は、生まれた我が子を見て、様々な感情を抱きます。

他人より感情をぶつけやすく、投影しやすい存在として

子どもを利用します。

 

たぶんそこが、トラウマの始まりなのだと、思ったんです。

 

例えば、とてつもなく厳しい人生を生きてきた後で

楽に生きられる子どもや孫を見て「いい時代に生まれやがって」と思うかもしれません。

そしてそれは、無意識に子どもや孫の脳の中に刻み込まれます。

敏感な子どもはそれに反応してしまうかもしれません。

 

昨日も書いたように、学校では「比べること」しかありません。

だから、常に「あいつはいい思いをしやがって」「どうせ俺は」等の思念が渦巻いています。どんなに成績が良くても、教師にえこひいきされても、ちっとも幸せにはなりません。恨みを買うことで、学校生活が窮屈になるだけです。

 

大人になって、まるで自分が被害者だったかのように言う人がいます。

頭が悪かったから、教師にダメ出しされたから、とか。

でも、その代わりに、「あの人はいいな」「私だって頭が良ければああなれるのに」と思ったことはありませんか。

大人に褒められる人物を探し出しては、その人めがけて「羨ましい思い」を放出していませんでしたか?

その「想い」や念は、確実にその誰かに届き、その人は「私は素直に幸せになってはいけないのではないか」という罪悪感を抱えることになったかもしれませんね。

 

幸せになることをお互いに「止める」波動を、子どもの頃から出すことが当たり前になっていたのではないでしょうか。

 

そして、そのことをすっかり忘れてしまい

「わたしは、勉強ができなかったけど、社会では認められた!」と大喜びで「素直に」成功していく人がたくさんいるなあと、私は見ていました。

 

いいな、子どもの頃に、他人の幸せを妬んで、幸せになるなという呪いを周囲にまき散らしておきながら、自分はまるで不幸から脱出できた人みたいに幸せになれるんだ、いいな、と私は心の底で思っていました。

 

わたしは、幼い頃、大人に可愛がられる存在でしたが

それは「いけないこと」でした。

可愛がってもらえることを素直に喜ぶことは嫌がられ

努力したことでしか自分を評価できなくなっていきました。

 

長女だからっていい気になるなよ。

という視線が、私を蝕み続けました。

 

失敗したら許してくれるんだろうか?

どうして喜ぶことが悲しいのだろうか?

なぜお祝いの席で、私は寂しいのだろうか?

 

お前の幸せなんて認めない。

 

そういう声を拾い続けた人生でした。

 

だからこそ、努力していい人にならなければいけないと

自分を叱咤し続けてきました。

 

どうすれば、素直に私の幸せを喜んでもらえるんだろう?

うらやましさや妬みのない純粋なものを、私は求めていたのです。

 

自分を痛めつけることで「わたしはそんなに恵まれていませんよ」とアピールして、許してもらおうとしていました。

 

幸せになりたい気持ちがありながら

幸せになることを自分で停めていました。

 

私にとって、一番おなじみの感情は「あなたのせいで私は不幸」というものです。

私に向けられた一番最初の感情です。

 

勉強ができないとか、顔がどうとか、兄妹と比べて何とかとか、

そんなの私にすれば些細なことです。

それで他人を恨み、羨み、妬み、その負の感情を糧にして

のし上がれたのなら、それでいいじゃありませんか。

 

その負の感情をもろにぶつけられて

何をやっても幸せに感じられなくなることよりはずっと。

 

と、今の私は思うのです。

 

母親、祖母、妹が全力で私に、自分の悲しみや寂しさをぶつけてきました。

よく倒れなかったと思います。いや、倒れた(笑)

期待に添い、妬みにこたえて目立たないようにし、賞をもらおうが進学校に行こうが偉そうにせず、拗ねて見せて、かわいそうな自分になり、からかわれ続け、マウンティングの餌になり、「これでいい?」「これで許してくれる?」ってずっと自分を卑下し続けることで自分のプライドを保ってた。

出る杭は全力で打って、杭が二度と出なくなくなるまで打ち続けてやる・・・

それぐらいの圧を、私は世界に感じていたのです。

 

だから、わたしは家族と縁を切ったんだなあ。わたしがわたしであるために。

 

まあ、怪しげなことを言うと

そこまでの圧を感じなければ、私は一生犠牲者のママだったのでしょうね。

自分の可能性に気づくことなく。不満だらけの人生を生きたかもしれません。

そう思うと、そこまでやってくれた実家の人たちに感謝なんですが。

 

私は、負の感情がどれだけ誰かの心を壊していくかを学びました。

戦争や、女性が家庭の中で酷い目に遭ってきたことが

怒りを直接の加害者に向けるのではなく

苦しまないで生きていける世の中になったことを喜ぶのではなく

「お前も同じ苦しみを背負え」とばかりに

誰かに圧をかけることで昇華されることになってる。

 

この連鎖がこの国を覆っている感じ。

 

いつまでたっても、誰も、本当の幸せを味わえないようになってるみたいな。

 

過去の、もういない人たちの苦しみや悲しみを背負わされてるのが

もしかしたら、ニートや引きこもりなんじゃないかとふと、思います。

 

人の幸せを純粋に喜べる人であるように。

そのためには、自分自身が純度100%で幸せを感じられることだなあと思います。

 

ほんとにね、何が怖いって、人の念なんですよ。

それが小さい頃の私を潰してきた。

私が不幸になるようにと願う気持ちを受け取ってしまった。

繊細ってそういうところ。

 

やりたいようにやればよい、あの人たちの言うことなんて気にしないでいいって、

誰かに言われたかった。

 

今は自分に言ってあげる。

 

「わたしは不幸な境遇だから何をしてもいい」「誰を恨んでもいい」「這い上がってきたんだからパワハラしても許される」「成功したから、小さい頃の恨みを晴らしてやる」・・・

なんていうかなあ、そういう空気で、いいものを潰して当たり前という空気を感じてしまう。弱者を痛めつけてる人は恨みと妬みに憑りつかれてる。

 

どんな境遇であっても、どんな苦労をしたとしても

魂を売り渡さず、凛として顔を上げて生きていたいね!

 

大きい話から小さい話まで、ごちゃっと入れて書きました。

少しでも何か、心に響くといいなと思います。

 

手洗いうがい!

 

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