独特だから
「奇跡」について書いたことで
何かが一つ終わりました。
すっきりした。
奇跡が起きたからって、それを優越感にして生きてる人があまりにも増えてうんざりしてた。しかもお金儲けの道具にして。
それって神様に失礼だとわたしは思ったよ。
奇跡を起こしてくれている、守ってくれている存在に対して
私ができることは、そこから学ぶことだし、奇跡以上に大事なことに気づくためだし。
お金も普通にあったし、学力も人並み以上にあった(頭のいい人から見たらそうでもないけど(笑)。アロマのインストラクターに苦労せずに合格するぐらいなら。
でも、人として大切なことはそこじゃないって。
そういうことを見せびらかして、お金に換えていくのは、きっとそれが普通じゃなくて、「これが幸せなんだ」って思ってる人なんだろう。
奇跡をお金にする人も同じで、特別な人間だという何かが必要なのだろう。
それよりも、誰もが特別な人だという認識でいたい。
わたしはずっと意味を探している。
何のためにこの世にいる?どうしてこの性格になったの?どうして嫌なことをしてしまうの?
害を与えない人になることを目指してみたけれど、どうも無理で
そこにあるのは、親子関係だったり、思い込みのなんちゃらが邪魔しているらしい?
ほんとかな?
そういうことも全部考えてみて、やってみて、違うなあと思ってきた。
拗ねてんだろう、ひがんでんだろう、素直じゃないだろう等々のディスりも聞き飽きた。
そして、今わかっていることは。
わたしは、自分という存在を空っぽにして、世界を見てきたということ。
ある人のブログを私は共感して読んでいるのだけれど、どうもその人の世界観と私の世界観は似たところがある。それがたぶん「自分を空っぽにして」の部分だと思う。
その人も、「親との関係が薄かった」とどこかで書いていた。
「わたし」というものを外に置いて、ただただ世界を見てきた。
何が起きているのか、みんな何を話して、どうやってそういうことになって行ってるのか。この世の仕組みはなんなんだ。どうなってるんだ。何が流れているのだと。
長い間「わたし」は「わたし」をこうして置き去りにしてきたもんだから
暴れて手が付けられなかった。「わたし」を無視しないで!と訴えていた。
自分の怒りと悲しみに飲まれて、とてもしんどい毎日を送った。今もその最中である。
けれど、ある程度出たのかもしれないが、「そういえば、わたしって外側をひたすら観察して生きていたなあ」ということに思い至ったのだ。
「私の気持ち」は置いといて。
だから、学問を追求する人に似ているんだろうと思う。作家に近いのだと思う。
作家と違うのは、自分の気持ちを置き去りにしてきたゆえに、「誰かの気持ち」を断定することができないってことだ。無理じゃんって思ってたし。
多くの人たちが「自分の価値観内」でしか生きてこなかったのに比べて、わたしは、「他人の価値観を観察して」生きてきた。
これを半世紀もやったのだから、人と違って当たり前だと思う。
自分の価値観だけで世界を見てもいい、とは思っていなかった。
やっと、人を嫌うことや、堂々と批判することにも慣れてきた。違うと思ったらすっと離れることもできるようになった、違いを認めることは「ダメ出し」とは違うんだって知らなかった。褒めるところはいくらでも見つけられるけど、その悔しさといったら!
占いや精神世界に対しての独特の思い入れや、そこに集う人たちと分かち合えない何かも、しょうがないと思えてきた。
複雑な生い立ちゆえ、世界を観察するしかなかった占い師の言葉というのが、私にとっては一番のおやつである。そこには「毒親に対する恨み」もないし、「親と和解して泣きあう」こともないし、「依存しない人が美しい」というのもない。
淡々と世界が書かれているだけなのに真実が見える。
すっきりとしたその姿勢に魅かれる。
感情に飲まれず、自分だけの成功体験に酔ったりせず。
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昨日は息子とひと悶着した。
というより、私が一方的に話して、彼は自分の城に戻っただけなんだけど。
昔はそれすら罪悪感でいっぱいになってたまらない気持ちになったものだ。
彼も私に似てキレやすいんだなと思ったら、気にならなくなった。
せっかくの紅葉日和なのに、朝寝坊。
ゆっくりしよう。