過去を癒す時期らしいいいいい
おはようございます。
昨日はとても暖かくて嬉しかったです!
感染症には十分気を付けつつ、春を味わっていきたいものです。
気持ちの準備もなく、仕事を打ち切られたことのショックは
じわじわとやってくるのだなと日々、感じています。
クビを切った人たちには悪いけど
「祟られろ!」と素直に思っておきます(笑)
なので、就活もままならず、というか、もうゆっくりしようという気持ちになっているところ。
仕事に行くと、「今日がこの学校最後だ」と涙がぽちっと出たりして
毎日「お世話になりました」とプレゼントをいただく。
そんな中、年配の人に「最後だし食事でも」と誘われて
ご飯を食べてきました。
なぜか「長女だからしっかりしてるのね」という話題から、母と娘の確執の話になり
意味もなく力説している自分がいました。
誰が得も損もなくて、自分の人生を生きているだけなのに
どうしてこんな風な世界ができあがってしまうのかと
私はいつも不思議に思います。
長女だからしっかりしてて、甘えられなくて、家族運が薄くて・・・
末っ子だから、甘やかされてて、しっかりした人がうらやましくて、でも、家族に甘えて幸せで・・・
この対比ね。
全部が全部そうじゃないと思うけど
けっこう多くないですか?
で、家族に恵まれない長女体質がまるで「不幸」であるかのように同情的に「見られて」しまうという世界がある。
その世界から脱出してしまえば、見えなくなるのかもしれないし
見えなくなる世界に自分が行けるのかもしれないのか?とも思うけど
少なくとも、この50年はそういう世界にどっぷり浸かっていました。
ああ、そうそう。
長くなるけれど。
自己責任論が幅を利かしている今。
私が常に思っていることは
みなさん、とても被害者意識が強いわりに、自覚がないってことです。
「お姉ちゃんだけがかわいがられてる」「頭のいい人だけが学校でいい思いをしている」→だから、自分はこんな風になって仕方がなかったんだ、いい思いをしている人を見返したい、一言言ってやりたい・・・みたいな感覚。
で、被害者意識同士が固まって、自己責任だよね~とか言いあって。
いやすごいよね。
第一子長女として生まれてこの方、「弟妹からの妬み」は感じても、自分は決して誰も妬めないわけで、学校でも同じで「頭がいい人は誰も妬んではならぬ」みたいなのがあって聖人君主を求められてしまう。
「あいつ、得してていいよな」という被害者意識の集合意識の存在を知ってる私としては、大人になっていきなり「被害者意識でしょ」と私に指さすあんたの過去を私は知ってるぞ、といつも思っています。
「できる人が掃除やってくれるでしょ」「学級委員やってくれるよね」「先生の代わりに偉そうにするから叩いていいよね」等々。
被害者意識から様々なめんどくさいことを「やらずに済んできた」人たちに、今更私が何を言われなあかんのかわからんわ!ということってないですかね?
さんざん、他人に仕事を押し付けて子ども時代を謳歌した人たちが
「自分らしく」「素直に」「愛されるように生きて」と言ったところで
は?ってなりません?
っていうのが、私の心の中にずっと巣食っているんだなあ。
(あの、校内暴力全盛時代、甘えて暴力振ってた子どもたちを擁護した教師たちが、結局は、今の「知性よりやくざ的な政治」を作ったんだなと私は思うんですよ。
「頭のいい人に馬鹿にされる俺、悔しい」人が全力で上に立って、お金や権力で好き勝手やってる。
ヤンキー的な人が生きやすい世界、日本て、幕末のやさぐれた浪人がもてはやされるのを見ても本当に変わらんですね~)
抱えてきた自分のその悔しさとか悲しさとか理不尽さみたいなものを
ここんとこ、昇華したくてね。
妹気質の人たちは「だけど、結局苦労して良かったんじゃないの?」とか言うんですけどね。しっかりしたかったとか、馬鹿にされなくてよいとかも。
知らんがな(笑)
私が甘えられないのと、あなたがしっかりした風に見られなくて悔しいのは、全く同じ。自分が甘えられるからって、誰もが甘えられるわけじゃない。
大切なことは、甘えられるかどうかとか、愛されるために自己開示せよということではなくて。
どうしようもなく生きてきた過程と、どうしようもなく身に着いたこと、着かなかったことのすべてを自分自身で愛せるようになることです。
何ができる、何ができない、だからこうしてああして、というマニュアルに当てはめて人を見るのではなく。
それこそ「ありのままの自分」を肯定して愛すること。
お姉さんがうらやましかった人は、永遠にお姉さん的な人に突っかかっていって
「あなたはしっかりしすぎでかわいそう。、愛されるように、子どもにも頼ればいいのに。寂しいでしょう。」などと言いまわる人になる。一生マウンティングしてろ。
そうじゃなくて。
お互いの生き方を尊重して称えあえる世界に生きていきたい。
んで。私の目指すところは
血縁家族を越えた関係を作ることです。
そこに、血縁にありがちな「わかってくれるよね」「私が母親役」みたいなものはなくて、お互いがお互いに影響を与え合い、心に何かしらの温かいものを残しあえる関係。
お互いの凹凸がうまいこと、作用しあう世界。
この二年間でやってきたことは、その足掛かりになりました。
自分のすべてを許していくまでには
まだまだ至らないけど
自分が目指したい方向がわかり
それは、血縁主義、家族主義とは違うし
それができない自分を責めるのは違うというのも
わかったのが
私にとっての出発点かもしれません。
破天荒な人生好きだなあ~~~。