寂しさとともに
こんばんは。
YouTube見ながら、スマホゲームをしながら、夕食を食べるという
ADHD的行動をしています。
っていうか、それぐらいでちょうどいい(笑)
ご飯はおいしいし、ゲームも進むし、知らず知らずにYouTubeの言葉が耳から入って勉強になるし。
ゆっくり味わうのも好きですが!
さて。
最近、寂しいという感情がまともにやってきました。
色んな人が「離婚したら寂しい」というのが理解できませんでしたが
ああ、こういうことかな?みたいな感じ。
「本当は寂しいんだろ?」って言ってくる人が
私の寂しさなんて理解できないのはさておき。
寂しさを感じる前に、大人と同じ感覚で生きることを求められた小学生だったのでね。
誰かが寂しくないようにしなきゃ、という義務感はあっても
自分がその「寂しさ」を誰かに埋めてもらえるなんて
考えるだけで、頭の中で禁止の笛が鳴り響く状態だったみたいですよ。
大家族の中で孤独感を味わったので
ひとり=孤独、とは全く思わず。
むしろ、一人でいるほうが寂しくないという感覚が常にありました。
今もそうかもしれませんね~。
なので、寂しいという感情が湧いてきた時はさすがにびっくりしましたけど。
やっと出てこれたんだなという感慨が深くありました。
昔からあるセラピーの手法で
「みんなの前で感情を放出させてやる系」ってありますよね(知らない人もいるかもしれませんが)。
自分で封じ込めてるやつを、公開で、思いっきり出させて泣かせて「よかったです~(´;ω;`)」みたいなの。めちゃくちゃ危険なやつです。
成功と危険が紙一重であるにも関わらず、成功した時のクライアントの感想によって客寄せできちゃうので、今日もどこかでやってるんじゃないかな。
わたしは、全くその手法に馴染まない人で
だから、その系のセラピストからは好かれないわけで
(だから、その系のセラピストってカルトっぽいんだけどさ)
そもそも学校カルトに馴染めなかったことがコンプレックスだった私は
ずいぶん自己嫌悪に陥ったものです。
今でこそ、自分を守ったのだとわかりますが、やっぱり当時は「仲間に入れないコト」に悩みました。
だいたい、人間は神ではないのですから、
誰かの人生設計に口出しはできないし、「あなたはそんなんだから、現実上手くいかないのよ、悩んでばかりなのよ」などと説教することがおこがましい。
その人のペースを見抜けないセラピストに問題はないのかい?
ということで。
私はやっと、ゆっくり自分を振り返る時間ができたことで
安心して「寂しさ君」が出てきてくれたようです。
今の私は、誰かを安心させるために仕事したり結婚したりする必要もないので(そもそもないけど、若い時は親がやいやい言うじゃない?)
好きな時期に好きなことをして生きていこうと思っています。
たぶん、多くの人が「型にはまった人を見る」ことが安心するのであって
ぶらぶらしているように「見える」だけで不安を覚えるのだと思います。
一緒に暮らしていて、例えば、お金が必要なのに働いてくれないとか、人手が必要なのに動かないとか、それなら「困ってるので助け合ってもらわないと」と言ってもいいんですけど、一緒に住んでいない人にまで「人生の型」を見て安心するのはとても不思議な心理ではないでしょうか。
だから、悩みが生じる。悩みを相手に生じさせる。
この社会のひな型に合わない人を悩ませてしまう。
悩まなくていいことを悩んでしまう。
「悩むこと」にハマってしまうと、自分の創造性が消えますね。
寂しさが浮き上がってきて、その原因も何となくわかったけれど
わたしは別に寂しくても困らないのでいいんです。
寂しさと共に生きていくことも可能。
「ほら、寂しいと嫌でしょう?」というのはエゴなので無視しますwww
人を求めるのは、寂しさからではなくて、愛しているから、です(ちょっとカッコつけてみたw)。
求めるっつうか、人に出会いたいと思うのは、愛する「推し」の対象が増えたほうが豊かな気がするからね。
それが私の好みだから。
人生の「好み」は、誰かに評価されるものではなく、ただ自分が満足するためのものなので、自分の好みを持てること自体が幸せなのかもしれないです。
ではでは、おやすみなさい。