すべては経験だから
おこんばんは。
少々健康に難ありの日々を過ごしております。
そういう時こそ、ブログ。
お題が閃いたので寝る時間を割いてしまいました。
私が何年もブログをウォッチングしていて気づいたことは
「人間てある段階がくると”そんなことではダメだ”と言い出すものである」ということです。
成長の一過程で起きるようです。
有名になって、色んな人が話題を持ちかけていくにつれ
最初は、楽しく、素敵なことを書いていた人が
「楽しいだけじゃダメなんだよ」「それは頼りすぎなんだよ」などと言い出すのです。
これはどの人でもあって、そして、それをまた、越えていくようです。
最近「嫌われる勇気」が流行ると「嫌われるようにわざわざふるまわなくていい」という逆説が登場する、ということが見られます。
わたしがこの頃思うのは、日本人はNOを言いにくいんだろうなということ。
だから、反撃できないし、しないし、舐められる女性が多い。
英語だとNOの一言で済むのに、日本語は「いいえ」とは言わないよね。
「やめろ」「やめて」と相手にお願いするような言い方になる。
日本語ってNOを言いにくいように作られてる。
なので、別に嫌われるとか嫌われないとかそういう話じゃなくてさ。
NOという気持ちを、ほんとに嫌な相手には言えたほうがいいだろうなと思うのです。
そして、最初から「自分の気持ちを自分の中で言語化できる」人などいないので、口に出して、自分の耳で聞いて、相手の反応を見る、という一連の流れは必須なのですよ。
幼児期にそれを通り抜けて大人になった人は、「怒るのはよくない」だとか「直接ぶつけてどうなるの」とか言うんですけど、やってみたことがない人にとっては、まず最初にそういう練習も必要なのです。
私もずいぶん、ひどい言葉を投げつけられています。
だけど「私を練習台にしてるよね」と思うんですよね。
私も「言われて嫌なので」と距離を置きますけれど、まあ、相手と同じレベルで怒ってみたりもしました。
相手に同調する性質が私にはあるようで、どうしても今の私になるために、そこをくぐりけなきゃいけなかった。
人には人の乳酸菌があるように
それぞれの成長度合いがあり、すべての経験に無駄はないのです。
ですから、嫌われて上等!の時期もあっていいし、嫌われて凹む時期だってあると思う。
わたしは、だからこそ、嫌われている人に同情もしないし、救いもしない。
そういうことを経験している人、として見るだけです。
いちいち「そんなことしたらダメだよ」みたいなおせっかいは言わないし書かない。
私自身が、まさに、様々な段階を経てきたことで、今の私がいるとわかっているし、知っているからこそ、別に今すぐ他人に対してこうあって欲しい、こうあるべきとは思わないです。
「厳しいことを言いますけど」などと書く人は、いったい誰に向かって、どういう段階の人に対してその言葉を発しているのか。育てるつもりなら、個々に別々に語られるはずのことをどうして誰もが目にするところに書くのか?
ちょっと意味がわからないんですよね。それは昔から。
何をしたいん?何を他人に理想を求めてるん?って思う。
それが自分の本心なら、「厳しいことを言うようですが」という枕言葉はいらない。
抵抗するための、強めに出る言葉に対してさえも「嫌われるから言わないほうがいいよ」と言われる状態の中で、これ以上、女性たちが言葉を発しない状況をわたしは作りたくないんだなあ。なんとなく。
わたしが気持ちをぐっと抑えられるようになってきたのは
「わたしはいざとなったら言える人なんだ」と知ってから。
そして、自分の言葉の影響をちゃんとこの目で確かめたから。
「わたしは言わないから嫌われないの」と自分で思ってる人って、けっこうキツイことを言ってるし、「言わない優しい私」って忖度してるだけじゃん、その態度、とても加害者側だよな、と思うことは多々あって。
怒りを抑える側にまわることは、おそらくとても気持ちのいいこと(優越感)だろうと私は想像している。
赤ちゃんは泣くやん。子どもはひっくり返って怒るやん。
わたしはそれが一番ストレートで伝わると思っているけれど
そこから脱するためには、「泣くな」「ひっくり返るな」という
「止め」じゃなくて
「何をどう思ってるの?」と丁寧に聴いてあげることだと思う。
大人になってもやってしまう人は、おそらく、小さい時に気持ちを言語化するお手伝いを大人にしてもらえなかったのだと思う。
それは「育てる」ものであって、「注意して止める」ものではないんだよね。
口に出さない人が、言語化されてない感情があって言えないのか、わかってて言わないのかは見た目にはわからない。
大人になったつもり、賢人になったつもりになるのは簡単だけど
単に気持ちを抑えたり、言語化できないままでいたりするのは
わたしはどうかと思うよね。
それこそ「紙に書く」「ブログに書く」「独り言を言う」「布団を叩く」等々の方法論はたくさんあるけど、私はさらに、現実の人間相手に「やってみる」のはとても価値のあることだと思う。
自分の中にある、意地悪や狂暴性が、若い時に発露して失敗して、上手に大人になる人もいるかもしれないが、ずっと親元で何も言えずに我慢していた人が、結婚や子育てがきっかけで爆発して、子どもや配偶者に暴力を振るうことがあるね。
自分だけが上手に大人になれたからって、すべての人が感情をあらわにできる子ども時代を過ごすわけじゃないから。その想像力は持ってていいと思う。
そして、誰もが許される。
わたしも、あの人も。
それを祈る。
失敗してわかることのほうが多い。
失敗を怖がって、一足飛びに「わかった人」になるのは害がありすぎると思う。
嫌われることを目指そうが、嫌われないことを目指そうが、最終的には同じところに行きつくに違いないと思ってるんです、わたしは。
そこに善悪や良し悪しを感じてしまうのは、その人に何かあるんだろね。
私にもあるよ。
わたし、今の職場で去年度まで、上の人たちから超嫌われ者だったことが判明(笑
けど、まさに全員に嫌われてなくて、今年は理解者が徐々に増えてるのが面白い現象です。何を言おうが、何をしようが、誤解する人はする。
わかってくれる人はわかってくれる。
ただそれだけなので、本音を言っても言わなくても一緒。言ったほうが、同類が見つけてくれやすいので、わたしは利用するかな(*^^)v
言う人も言わない人も、どちらも癖があるし、どちらも嫌なことをしてしまうよ。
どんな人にもいいところとわるいところがあって、それは、決してどちらかが多いこともない。自分の好みに過ぎない。自分がどの段階で出会うかによっても変わってくるし。相手の段階と合わないだけかもしれないし。
自分を抱きしめていればいい。
どんな自分もね。