自分を開くだけで
今日は朝から奇跡が起きて
たまらなくてブログを書くことにした。
奇跡、と聞けば「何かいいことでも?」と思うだろう。
違うんだな、そういうことじゃない。
わたしは、初めて人に本気で甘えてみた。
ある人にめちゃくちゃ怒ってしまった。
傷つけたとも思う。
だけど、その人にもう一度メールを送ったのだ。
それがどうしたって思うかもしれない。
そう。メールなんてすぐに送れるし、目の前に相手はいない。
私の心の中の変化。
「ダメに決まってる」と思ったことへのチャレンジ。
「自分が欲しいと思ったことに対して、恥も傷つけられることも覚悟で求めること」へのチャレンジ。
そして、そうしようと思った時に奇跡は来たんだ。
今まで、私が大嫌いだった仕事上の人に対して。
「あれは私だった」ということが明確にわかったのだ。
「こんなに酷いことをしても許してくれるよね?わかってくれるよね?認めてくれるよね?」と彼女たちは私に堂々と求めてきた。
わたしは、自分にそれを許していなかったから、彼女たちが許せなかった。
でも、私もそうしたかったのだ。
傷つけた相手に、許してもらいたいと思うし、もう一度つながりたいと思う。(好きな人限定だけどw)
それは恥ずかしいことかもしれないけど、みっともないけど、素直な気持ちだとしたら、それを「否定する」より「認めた」ほうがいい。
自分の中にあるそのみじめったらしい気持ちをやっと認めたら、やっと彼女たちのことに対する気持ちが変化したのだった。
これを奇跡と呼ばずに何と呼んだらいいのだろうか。
不器用な自分に優しくなりたいと思った。
そんなんじゃ嫌われるよ、ダメだよ、求めちゃいけないよという声に押しつぶされていた自分を解放した。
頑固で融通の利かない部分を否定している限り、相手のそういう部分を認められない。
もっともっと自分を認めて、相手に開いていっていいんだと思った。
たとえ嫌われても、開いて嫌われるのと、こっちから勝手に諦めるのとでは違う。
似たようなことは今ままでもやってきたし、やろうとしたんだけど
そうじゃなくて、もっと軽く、自責の念なしに、開くということがわかった。
自分が悪いと思っていると、「甘え」すらも重くなる。
そして、相手の甘えを許すべきかどうかも迷ってしまう。
だけど、自分の甘えを許したら、甘えても無理なこともわかるし、甘えられても無理なものは無理だということに躊躇がなくなるし、そこに人を責めるエネルギーを乗せなくていい。
「いや、私は今、甘えられても無理なんで」という時に、「甘えてんじゃねーよ」という感情を入れなくなるということだ。
自我は「甘えを許せない自分を責めろ」と言ってくるんだけどね(笑)
わたしは、とてもユニークで
例えば、今のネイルを「褒めてくれる人」はいっぱいいるのに
ネイルを見ようともしない人を好きになったりする。
で、「ネイルに注目してくれないコト」に腹を立ててしまう。
ネイル、良くなかったのかな、と思って悲しくなったりする。
いやいや、もうすでに5人以上の人に褒められたよね?
なんでそれを認めないんだよっていう話になるよね。
自分のことは自分で見えないんだけど
こうして、わかることがたまにある。
それは、人間ではないもの(人によっては神様とかハイヤーセルフとか言う)に自分を開いて「何が来てもいいので、私に奇跡を見せてください」と思っているだけでいいらしい。らしい、でしかないのがいいところ。
甘えたいオレってかわいい。
それが叶わなくても、甘えてみたからそれでいい。
何かを欲しいと思うことを卑しいと思ってる人にはできないことだ。
自ら手を伸ばして手に入れようとすることをいじましいと思ったらできないことだ。
環境の中で当たり前に与えられていて、望むことをせずに済めば、そう思うだろうと思う。
けれど、本当に欲しいものがわかる瞬間はギフトなんだ。
それを願い、がむしゃらに求めることを私は恥と思わない。
「ありがたい」とか「与えられてるから幸せ」と言ってる人もいるけれど
わたしはひねくれてるから、そう思えないことのほうが多いんだ。
もっともっと自分を満たしていきたい、わがままで贅沢で傲慢な人間だから。
私に起きたたくさんのトラブルは、私に甘えることの試練を与えてくれていたのかもしれないと思う。
周りに頼れ、ひとりでやるなっていうメッセージが含まれていたんだ。
甘えている人を見て「いいな」「わたしにはできないな」と指をくわえてみていた。
でもやっと、本当の「甘える」の先っぽと捕まえた気がしてる。
私の目の前に現れてくれるすべての人が教えてくれる。
それが奇跡。