どんなわたしでも
今日はすべてがひっくり返る日で
予定は全部キャンセルになり
車は渋滞で
どこまでも流される一日だった。
朝、部屋を掃除したので、もしかしたらリセットされたのかもしれない。
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人付き合いにおいて
「これが正解」と書いてある本があまりにも多いし
すぐに「あなたの人との関わりはどうのこうの」と言う人も多い。
幼少期の親子関係に端を発する性格もあるだろう。
でも、それがどうしたというのかと、私は思う。
「つながり」という言葉自体怪しい。
誰の感じる「つながり」が正しいのかもわからない。
あなたの「つながり」とわたしの「つながり」は決して交わらない。
理想があるかもしれないが、その理想をなぞったところで
虚しいだけになる可能性だってある。
自分で自分をアゲるために、軽く手相占いのコーナーに寄ってみた。
その占い師さんと30分も話をしていないけれど
一瞬で何かが通じた瞬間があった。
私にとっての「人間関係」とはそういうものの積み重ねであり
また、日々重ねていく会話の中にも「奇跡的に通じた瞬間」があれば
それだけでいいと思う。
他人から見て「愛されているように見える」とか「愛し合ってるふたり」であることに価値を置く世間から、私は一歩離れていたい。
幸せそうに見えることと、幸せな瞬間が訪れることは全く違うことだと思っているからだ。
自分の中の何かが満たされる時
誰かがそれを目撃することはない。
だから、常に「どんなわたしでもいい」と思っていなければ
「他人から見る幸せ」を演じられない自分をかわいそうに思ってしまいそうになる。
「見られること」から「自分が感じられること」へのシフトは
簡単なようで難しい。
「見られること」は、当然、自分が自分を観る眼差しでもあるから。
自分自身を「世間の目」と同化させてしまうと、幸せそうなことをしていない自分を否定してしまう。。
だから常に、自分を認め、認めてくれる人と出会っていくこと。
最近、思うのは、男も女もみな、空っぽみたい。
つながっているように錯覚しなければ、生きてけないぐらいに。
つながりかたも上手じゃない。
誰もがそういう時代を生きてる。
一瞬でも心が触れ合える場面を作れたらOKだと思って。
そして、馬鹿にされそうになったら、逃げて。
どんなわたしでも、どんなあなたでも、それでいい。