風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

自己肯定感て結局なんだよな話

今日はお盆休み最終日プラスワン。

 

美術館に行く予定なのにパソコンに向かってる。

吐き出さなきゃ死んでしまうで~~~な私です。

 

Twitterで「弱者は努力しなくていいよな」という考え方について、それはいかがなものかと書かれておりました。

たしかにそうですが、その考えに至ってしまう心境を私は知っている。

ということについて、書こうと思ったのでした。

 

わたしはとても繊細なところがあって、他人の気持ちをいらんとこまで読んでしまうんですが(鈍感な部分もありつつ)

私の成育歴を覆っていたのは「他人からの嫉妬をいかにかわすか」でした。

 

幼稚園の時に、たまたまその幼稚園が公文塾を始めて、親はこれ幸いとそこに私を突っ込みました。それが良かったのか悪かったのか、小学校に入るころには、すでに国語と算数は得意中の得意になっていました。

それについては、何度も何度も振り返り、あの公文教室がなければ、わたしはどれだけ普通の人でいられただろうかと後悔しました。(今はしてません)

 

日本の怖いところは、少しでもいいところがあると、全力で引きずり降ろそうとするところ。先生に気に入られてるとか、テストの点が良くてクラスで褒められたとか、そうなるともう、「どこにこいつの欠点があるか」を必死で探されてしまう。

 

だから、点数を取り続けないと、欠点を探されるだけの人生に負けそうになるんです。

 

「頭がいいことしか取り柄がないよな、お前は」というムードにやられてしまう。

 

わたしはそうでした。

 

運動ができなくて、美術でもぼろかすに言われて、先生からも「頭がいいだけの人には芸術系は理解できないよね、あなたはその典型よね」的な嫌われ方をした記憶もあります。

 

いつも、何もしてないのにとても居心地の悪い場所で生きていました。

 

そもそも、私はとても不器用です。鋏の使い方も、お箸の使い方も人並みにできるようになったのは小学校高学年になって、自分の身体が自分にフィットしたと感じた時でした。それまでは、身体が自分のものではないような感覚で生きていました。

 

勉強はとても簡単だったし、努力しただけ成果が出るので楽しかったのは、その身体能力の低さと比べていたからだと思います。

 

だから、いつも気が抜けなかった。

頭脳だけで評価されてるわたしは、それがなくなったら生きている価値などないんだろうなと思っていたからです。

 

どうすればいいのか。大人の期待する「頭のいい人間」をやればいいのか。

学級委員をやってみたり、頼まれたことは何でもやって、自分をこの世界に存在させようとしました。

 

大人も子供も、よくわからないけど、他人に嫉妬してばかり。

相手のいいところを見出すよりも、欠点を探してあげつらうために生きてる。

私にはそう感じていました。

 

必死で私の粗を探そうとしてる。見つかったらおしまいだ!という悲壮な世界です。

 

だからこそ、障害を持っていて、明らかに「もう無理です」を体現している人がうらやましいと思ったことは事実です。

小学生の頃から、自分は白旗をあげたくて仕方がなかったからです。

もう無理だ、やめたい・・と。

だけど、優等生を止めた後の世界がどれほど地獄なんだろうと思うとやめられないんですね。

 

そしてそれが、昨日書いたような「苦手な育児をがんばっちゃう」ところに行ったわけです。

 

 

とにかく「誰からも何も言われたくない」一心ですよ。

隠れて悪いことしたい。目立ちたくない。そっとしておいてほしい。

どうせ目立つなら容姿で目立ちたい、容姿で嫉妬されたいのに、って。

 

田舎の農村で認められるのは、ヤンキーでかわいくて、男の世話ができる女子。

決して頭が良くて、リーダーシップが取れて、男を手下にできるかわいくない女の子じゃない。

そんなのは男の敵で、下手するといじめられる案件。父親からも「女らしくない、結婚できない」と何度言われたことか。

結婚するしかないでしょ。子ども産むしかないでしょ。苦手でも頑張るしかないでしょ(笑)

 

そういうわけで、とにかく私は、完ぺきな結婚をやってみせることが目的になり、そのために突っ走った半生だったというわけです。

 

嫉妬にまみれたこの世界の片隅で。(いや、嫉妬の半分は母親からだったけどな)

わたしは、嫉妬にまみれておりました。

誰もがうらやましかった。普通に生きられる人たちすべてに嫉妬していたのです。

 

親と遺産で揉めて離れることになり

離婚をし、息子たちを手放して

わたしはやっと一人前になりました。

 

人並みに馬鹿なことをやって、安心したのです。

 

親孝行しないことをとやかく言う人もいるし、離婚したらしたで「パートナーシップが築けない未熟な人」と言われるし。でもそんなこと、どうでもいいくらいの解放感と自信が生まれたのは事実です。

 

自分の人生を自分の足で歩けるようになったから。

 

エリートと言われる人たちの内面を私は知っています。

揚げ足を取ろうとする周囲から身を守って固くなってる。

ほころびを少しでも見せたら、人格攻撃が始まることがわかってるから。

「ほら、頭のいい人なんてそんなもんよ」と。

それは、エリートの問題ではなくて、学校教育で優劣を勝手につけられて、誰もが自分の良さを認められずに生きてきたからです。

 

完璧を求めらる環境にいると、「努力しないで生きてるように見える人たち」がうらやましくなる。それがたとえ錯覚であろうと。

 

仕事中にお茶飲むな、コンビに寄るな、とか言われる時代です。

子どもが不登校だというだけで、どれだけ地域から排除されるか、親族から軽蔑されるか。子どもを殺してしまった親の切羽詰まった感じ。周囲の圧力。

 

そういう視線を浴びながら、どうやって自己肯定感を持てというのだろうと。

 

わたしはようやく、何もできなかった頃の自分を取り戻せそうです。

ちょっとイカれた部分(キレやすかったりね)もすべてを肯定して。

 

周囲から「こう思われるだろう」というのは、錯覚であるし、自分が自分に浴びせているものではあるけれど、そんなに簡単に気づけない。当たり前です。

他人は他人のことがよく見えるから、さも簡単にできるかのように言うし、できない人をまた、責めるようなことをすぐに言う。

そうやって他人にお説教かます自分を鏡で見ろや!って話ですよ。

 

長くなりましたが、欠点を探すより、どんな能力にも敬意を表したいと思う。

才能は素晴らしくても、人間的にダメな人はダメですけれど、それは、頭がいい人だけじゃなくて、アーティストにも霊能者にもいます。能力と人間性は別。それでいいじゃないですか。

 

そこに完璧を求める(本人も含めて・・・私には才能あるから人格もあると勝手に信じてる人もいるから)のはやめたいね。

 

無難な人でいることはとても大変。

他人を黙らせたいのなら、「変わった人」を貫くしかないと気づいたところです。

男はいいよなあ、簡単に「変わった人」で生きてけて~(やっぱりうらやま~)。

 

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