まとわりつかないのが気持ちいい
冬らしく寒くなり、インフルエンザも衰えませんが
いかがお過ごしでしょうか。
あるブログで「人は環境に左右される」という記事を見ました。
わたしもそれに同意します。
そして「国によって服装が変わり、その後で、どの国でも着れる服が残った」と。
それが自分らしさだとその方は言われていたと私には読めました。
わたしがずっと望んでいたことは、周りの人間がいなくならない限り
自分自身が見えないから、一人になりたい、ということでした。
親、結婚相手、結婚相手の親族、子ども達・・・
私を取り巻き、私を「こうである」と勝手に規定してくる人たちの思惑をすべて排した時、わたしはどういう自分を観ることができるだろうかと。
たくさん着ていた服を次々と脱いだその先に見えるもの。それが知りたいと。
誰かと一緒にいる限り、その人への依存は止まらない。
そして、干渉も止まらない。
自分自身に戻る時間などどこにもない。
やっと手にした「自分自身を見つめる時間」がここにあります。
わたしにまとわりついてくる視線、思考が少なければ少ないほど息がしやすいのです。
今、最大に鬱陶しいのは会社の上司にあたる人たち。
最初から色眼鏡で私を見ていて、それを決して動かさない。
やさしさという衣をまとって、人を排除することも辞さない人たち。
優しさや、つながりに助けてもらえと言う人ほど
簡単に、気に入らない人を排除する理論をでっちあげてくる。
わたしはそれがとても苦手。
優しさやつながりの毒に気づき、わたしはそれが苦手であるとようやく自覚できたからこそ、自分が居心地のいい場所、自分が気持ちのいい人間関係を率直に求められるようんなりました。
悪意や嫉妬や憎しみが決して生じない場所と関係性。
この世にそんなものがあるのかしらと思っていたらありました。
海外ならもっとあるのかもしれませんね。
誰のものでもなく、透明で、いるかいないかわからない、だけど、人と会っている時の存在感はちゃんとある。
それでいい。
消えていくように消えればいいと思うのです。
嫌われないように、怒られないように、性格を替えなさい、このままでいいと思ってるの?とどれだけ脅されたかわからない。
脅す人は私を愛していると言い、性格を咎める人はいい人ということになっていました。
もういらないのです。愛も優しさも。
それより、わたしはここにただ、存在していたいのです。
空気を吸って、生きていたいのです。
執拗に誰かを求め、誰かにかまうことでしか生きられない人たちがいることも知っています。そういう人が、ひとりでいる私を見ては何か言わずにはいられないようです。
私が困っている時、それは現実的な対処法を求めているだけなのに
勝手に過去や心をほじくり返し、私を操作できると思ってあれこれ言うのです。
わたしは、怒っている人には怒りを返し、いらんものを与えようとする人には、いらんものをあげて、無視する人には無視を返す。そうやって相手のそのままをお返しするだけ。私から、いらないものをあげることもないし、怒ることもないのですよ。ほじくり返そうとする人にも、お返しにやってあげたいんですけど。さすがに喧嘩売ってるみたいになるのでやめますが(笑)
受け取りたくないものは、お返しするに限ります。
で、笑顔をくれる人には笑顔を精いっぱいあげられるので、笑顔の人のそばにいたいと思います。
風になりたいね。ふわっとどこにでも行けるようになりたいね。
間違って飲んでしまったカシスソーダ。
美味しかったよ。