罪悪感というもの
今日は少し冷えますね。
ところで昨日の夕陽、とても大きかったの、見ました???
自然の変化も色々ありますね。
ところで。
罪悪感というのが、私にとっての「いらないもの第一位!」です。
そもそも、わたしには罪悪感というものがなかった。
生まれた時からすべて揃っておりました。
身体の機能があまりうまく作用しなかったり
心理的に寂しいとかしんどいとかいうのもありましたが
それなりに「自分らしく」あれば、嫌われることもなく
何かに引っかかることもなく、人生が流れていきました。
だけど、生きている毎日の中で少しずつ溜まってきた気持ち。
それは「ここは、”わたしはみんなより欠落してるけど頑張ってる”という人が認められる社会なのかな、お気楽にしていては認めてもらえないんだな」ということでした。
同情を得なければ、かまってもらえない。
へらへらとして、自分ができることを精いっぱいやって、余力は人のために使っているだけでは、誰も注目してくれない。
ということに、だんだん寂しさを覚えていったのです。
今でもそうですよね。マイナスからの脱出物語がみんな大好き。
「私が悪いのね」というセリフも大好き。
それって罪悪感を人に与えることに成功しているんだなあと思ったんです。
自分で自分をひっぱたいて頑張ってる人しか認めたくない、みたいな。
そして、勉強できる人にはどんな嫌味を言ってもかまわない。美人なら、何を言われてもモテるんだからいいだろう、という風な環境がありました。
勉強ができないけど、○○ができる私、なら、同情もされて一挙両得!勉強できるだけの人を見返してやる!的な発想とか。
田舎だったので、特にそういう感覚があるよね、特に。
わたしは、自分が得意なことは何でも教えてきたし
できることなら何でも協力する子どもだったけど
「勉強できるんだからそれぐらい当然してくれるよね」というものに埋もれてしまい、それしか自分の価値はないのだと、思い込む原因となっていきました。
その反動が、大人になって「もう誰のためにも生きたくない」になったんですけど、そうなると、大人になってからはじめて「誰かのために生きる」に気づいた人から色々言われるわけですよ。
何を今さら、と私は思ってしまうんですけど、それすら「偉そう」とかね。
結局、わたしは、自分自身に対して、「人からバッシングを受けて一人前」というわけのわからない価値観を身に着けてしまったのでした。
今も罪悪感いっぱい抱えています。
誰かが側にいるだけで、罪悪感の種にしてしまいます。
もういらないんだけどな。
だって。ありのままでいたほうが好かれるし、うまくいくのに。
それを見て「またあの人だけうまくいって」と言われるのが怖い。
仲間に入れてもらえない気がして怖い。
だからって、私が苦労している時に、その人たちが助けてくれることは一切ないんだけどな(笑)
どうしてみんな、苦労していることに留まっているんだろう。
どうして工夫してそこから脱出しようとしないんだろう。
そして、苦労から逃れた人を羨ましがるだけで、自分を「今も苦労しています」とアピールしているんだろう。
わたしはちっとも不幸になってないんだけど
そういうお気楽な生き方は、あまり好まれないんだなあ。
不幸なふりをするのは疲れる。
不幸なふりをしていなきゃ助けてもらえないのも疲れる。
どこまで困難に耐えるふりをすれば、人間だと認めてもらえるのかわからなくて苦しい。
マジで罪悪感はいらないし、もらいたくない。
私が癒してあげるっていうの、それ、まさに「私があなたに罪悪感をあげますよ」だからな!
お前の罪悪感、誰かを癒すことで消そうとするな。
癒される対象を探しまくって、自分の罪悪感を押し付けて金儲けに使うな。
それ、できたらめっちゃ楽になるのわかってるから
私は絶対その道に入らないって決めたんだ。
能力は適切に使いましょう。
フラットな目で世界を眺められるようになりますように。
私は今日もワークします。