ザイアクカン
明日仕事大丈夫?と思える身体で目が覚めた。
とても悲しくなってしまったのだけれど
動いているうちに、ある記憶が蘇った。
私の母親はよく寝込んでいた。
私が長女で、すぐに次女が生まれ、長男が生まれた。
男児を産むことを期待されていた母は、常に妊娠して出産していた。
だからだと思う。いつもしんどそうだった。
その横で、わたしはお手伝いをしていたか、邪魔にならないようにしていた。
・・・ような気がする(私の中の記憶のみだから)。
寝込んでいる母に対して申し訳ないと思っていた自分がいた。
未来の私は、とことん寝込むことになるのだが
その時の罪悪感を晴らしていたのだろうかと、ふと思った。
まあ、私の息子たちは、私が寝込んだところで、手伝ってもくれなかったが(笑)
父が胃がんになった時、家族中で大騒ぎをした。母も必死で看病していた。
けれど、母が子宮の手術をした時、父は必死にならなかった。私も後で知らされたくらいだ。
母はそれを恨んでいた。
なんだか、そういうことの積み重ねが私の中にも降り積もっていることを感じる。
母親と一体感を持って生きていたために、母の悲しみを自分の中に勝手に植え付けてしまったらしい。
私の人生でたくさんの誤作動が起きた。
そのたびに、死にたくなったり消えたくなったりした。
誤作動は、私の中の「私でない部分」が発動して起きたことで、「わたし」はずっと変わらずに私のそばにいた。
健康でないコト、疲れること、しんどいことに対する罪悪感。
「申し訳ない」という気持ち。
そして、昨日も書いたけど、「健康な時だけ寄ってくる人たち」に対する悲しみ。
ただ自分の身体が疲れているだけなのに、これほどの意味を持たせたら、そりゃしんどいよ、と思う。
(昨日の補足で面白い話。
男の人って、女性の隠していることを根掘り葉掘り聞きたがる。
「何か悩みでもあるでしょ」と勝手に悩みがあることにして、プライバシーを知ろうとしたりする。
自分のことは何一つ言わずに。男性に限らないけどね。
他人の人生を自分の楽しみにしてしまうその心根が私は苦手だ。
自分の人生を語れよ、と思う。そこから始まるんでしょ?と思う。
私の毎日は、あなたを楽しませるためにあるわけではない。
これからは、男性にもあれこれ(女性遍歴の回数とか)聞いて反撃するつもりw)
他人の人生や他人の毎日をむしゃむしゃと食べるさまは
私の母親そのもので、だからこそ、とことん不快を感じてしまうのだろうけれど
その不快感を拭い去りたくて、必死で毎日を生きなければと自分に強制してしまっていたのかもしれないなと思う。
何かに気が付いたり、何かを考えたりするのは
自分の毎日の歩みからしか生まれない。
常に「自分はどうか」と問うところからしか始まらない。
「あれを見てこう思った」というのは誰にでもできることだけれど
「そこから私は何を感じて、明日からどうしようか」と思うことが第一歩なのだ。
どんなに本を読んでも、テレビを見ても
「他人の人生」として観ている限り、自分の中には何も残らない。
というわけで、私の罪悪感は半端ないなと思ったことでした。
健康でない=不幸というのをやめると、身体以外は元気になります。
納豆トースト食べました!おいしかった!
温泉にでも行こうかと思っております。
GW最終日ですよ~
ブログのタイトルを変えました。
青い鳥は私自身の中にいたので
その鳥がこれから、風に吹かれて逆らわずに日々を生きてけるといいな~という意味を込めています。よろしくお願いします。