休憩が難しい
こんばんは。
みなさん、GW満喫されたでしょうか。
わたしはほぼ寝ておりました(≧▽≦)
それでも今日はどうしても行きたくて
山崎まさよしさんを見に行ってきましたよ。
「7時から」のはずが堂々と7時半からになっておりw
少し会場からブーイング湧いてたんですが(だってみなさん、立ったまま待ってたんですよね~)
終わるころにはさすが、盛り上がりました。
音楽に浸った後は元気になっていました。
「休むのが宿題です」とある人から言われたから、なんですが
(それ以前にホントに体が動かなくなっているので、考えざるを得なかったのですが)
わたしは、休むのがとても苦手だということがはっきりしました。
「苦手だから宿題なんですよ~」と笑顔で諭された意味をかみしめております。
・休ませられるより、頑張れるニンジンをぶら下げてくれたほうが嬉しいタイプ
・人の期待に応えすぎ
この二つです。
で。今回「休むこと」と「自分を愛すること」の二つがセットなわけです。
わたしは、人の期待に応えるより、自分のやりたいことをできるだけ優先するように心がけていたつもりなのですが、甘かった様子。
「そうしなきゃ」「そうなってる自分に見える風」で満足してたんです。
気が付いたら、とことん人の期待に応えていました。
「GWは何かしていたい」がありました。
他人に対しても、他人の視線を勝手にイメージしている自分に対しても。
根深い自分のその考え方に気づいた時
「休もう」「やめよう」と素直に思えたんです。
やりたくないことはほぼしていないけれど
「人から見ていいことだし、別に嫌じゃないし」と思っていたこともやめます。
嫌じゃないことと、やりたいことは全然違うことなのですね。
ただ休んでしまうと、本当にやりたいこともできないし
ちょっとつまんないかな。
でもね~世界を自分で動かさない人たちが
私が目いっぱい動いて現実を動かすのを、ただ喜んで観ているだけで
(芸能人ってこういう感じで扱われてるんだろうな、とちょっとだけ思う)
私がその「何かして!楽しませて!」という視線をすごく内面化してしまってる気がするのが、今回ものすごくわかってしまいまして。
それはきっと母親の視線であり、なんだか知らないうちに頑張らされてる小さな自分がどこかにいるようで、「もう成仏させたい」と真剣に今、思っております。
だから、結果を出したくなかったんだよな、と思い
いやいや、結果を出したところで自分は自分でいていいし、断っていいし、やめていいなよな、と思い直したりして。
進学校に合格した時も、わたしは冷めてたけど、親は大喜びだった。
周りが喜ぶほどに私は自分などいないかのように思いました。
私の気持ちなんて関係ないんだな、親を満足させてしまったな、悔しいって。
で、その悔しさをなんどもなんども違う場面で味わってるんです。
私の気持ちとかけ離れたところで、私の行動に勝手に意味を見出されて。
悲しみには寄り添ってくれないのに、私が結果を出した時だけ喜んで。
そういう身勝手さにずっと傷ついてたみたい。
しんどい時に休ませてくれるのが愛情で、頑張らせるのは愛じゃないんだな、私はそういう意味で、自分に愛がなかったのですね。
しんどくても頑張らせてたし、頑張った時だけ自分を評価した。まるで親のように。
そろそろ卒業しよう。
優しい人に出会えますように、優しい自分になれますように。