毒として生きる
暖かくなったと思ったら花粉症。
生まれて初めてかもしれない。
引っ越し先の環境だよきっと、くやし~。
昼ごはんのサンドイッチ。
生ハムとチーズとりんごをマヨネーズ、黒コショウ、ワサビで。
食に対する興味は昔からあったけれども
こうして、「家族のためじゃない食事」を作って食べる醍醐味ったらたまりませんね。
これで大いに実験しながら美味しさを追求できるというものです。
しかも、そういうことを語れる人が居ればなおさら。
さて。
今日のおみくじ(スマホでぽちっとできるやつ)に
「スサノオ」と出ました。
わたしは、昔から、神様と言えばスサノオとの縁が深いと勝手に信じています。
一番最初にスピった時、言われたのが「シバ神」からのメッセージだったりして
どうも「戦いの神様」とご縁が深い様子。
大人しくないんですよね、結局のところ。
長い間、多くの人を観察してきて思うことは
虐待を受けて育った人たちがあまりにも多く
自分が怒りを出すことを極端に恐れるあまり、他人が理不尽なことに声を挙げることをも咎めてしまう傾向があるということです。
自分が怒られたから、怒りたくないから、「どんなことにも怒らないこと」が愛だとか精神性が高いという風潮が生まれた。
これって、完全に支配者の思うがままですよね。
何をされても怒らない人たちを創った。すげ~~~。
戦わないコトは美しいかもしれないけれど、戦う前に力でねじ伏せられて、暴力で抑えられて口を封じられることは美しいことですか?
学校ってね、家庭ってね、そういうことを教えてる。
逆らうな、意見を言うな、と。それをイコール「怒らないコト」「腹を立てないコト」という風に定義しちゃったんじゃないかな。
力を持っている人たちは、「自分が気に入るような意見」にしか耳を貸さないんだよ。
自分の耳に心地よい言葉を言ってくれる人の言葉を「愛」だと思う。
それだけのことだと思うんです。
なので。
その場にさざ波を起こすことや、場を乱すようなことを嫌うのは
決して愛じゃないし、気高いわけでもなく、現状維持が好きな人たちってことだとわたしは解釈しています。
平和平和と言うけれど、戦国時代は、人を斬ることで平和が保たれていて
人を斬りたくない人たちは、神様にもなれなかった。
一族を守るために人を殺すことが正義だった。愛の証だった。だから兜に「愛」って。
その時代と今と、何が違うんだろうね。
「自由とわがままは違う」と言う人がいるけど、そのジャッジメントは誰がしてるの?あなただよね?神様じゃないよね?ひとりの人間の意見でしかないよね?とわたしは思うんだけどって言ったら、スピな人は悲しそうな、否定されたかのような傷ついた顔になる。
美しい自分を否定されるのが何より嫌いなスピな人たちを見て、わたしがそっち側に行けない理由がわかった気がしたの。
わがままに、誇り高く、自由に生きていく。
それは、今の「わたしって悟ってて美しくていいこと言ってる!」でお金を得ている人たちとは全く違う道。
私の前に道はない。
「自分」というブランドを背負って生きていけばいい。
世の中の「毒」として存在するってわくわくしない?わたしだけ?
美しくない、面白い話をいっぱいしよう。
傷だらけの、それでも笑える話をしよう。
欲望の真ん中で愛を叫ぼう。