風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

満月

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友達と大いに食べて喋ってスッキリした満月夜に。

1人でも理解者がいるだけで世界は明るくなると思う。

なんでそうなってるんだろう、どうしてあんなことになるんだろうということを突き詰めず、ただ、フワッとした感覚で、許したらいいとか、なんだか嫌だとか言ってても何もならない。

最近、立て続けに、「後輩に厳しくして、クレームがきたけれども、自分では覚えてないし、笑い話にしてしまう」(ざっくりだけど要約してみるとこんなこと)という人達の話を聞いたり、見たりした。

中には、自分のできていないことまで、後輩には厳しく当たったというのもあった。

私の中の常識は。
上に立つ人は、自分が習得して出来るようになったこと、あるいは、できるかできないかの見極めが出来ることが必須であって、自分ができないことを後輩に「やれ」と言うのは未熟である。
というもの。

だから、ずっと、パワハラまがいのことを何故するのか、そういう人のことがわからなかってし、怒ってもいた。


けど、そういう人は、実は、治らないしわからないんだな!ということがわかったのだ!

もともとそういう人で、そのまんま歳をとっていくだけで、いつか気づくはず、という期待をしても仕方ないようなのだ。

私は、親や教師を常に観察していて、わかってる人なのか、虚勢を張ってる人なのかを見ていた。
目標としていたのは、謙虚で知ってることをわかりやすく教えるタイプの師匠であり、押さえつけたり厳しく指導することは、私の選択肢にはなかった。

けれど、世の中には、支配するされる、指導するされるのパターンしか持たない人たちがいて、それはもう動かせるものでは無いらしいのだった。

そして、そのような人達が、大人になり、支配し指導する側になっていくのは仕方なく、後輩からどんなにクレームされても、チクッと嫌味を言われても、自分がおかしかったなどと思わず、「私は自分ができないことを認めたくなかった」「できないと言えなかった」としか思わない。


そういう思想、発想にしかならないのだから、何を言っても無駄なのだなと、やっと思えた。


いつでも自分は教える側で、ちょっと知識を得ただけで、ちょっといいことがあったくらいで、他人を上から目線で見下してしまう。
それがその人たちの生き方なんだと思ったら、もう、今までの諸々が溶けてなくなるような気になった。


見下しは、単なる癖であり、その人の個性のひとつに過ぎない。だから、見下されたようなことを言われても、私の価値は何一つ変わらないし劣ってもいないのだ。

悔しい。個人の癖に振り回されてたなんてね。

場の中心にいたい人、アドバイスしたがる人、いちいち評価して回る人、自分の経験だけで人をジャッジする人、みんなみんな、個性なんだね。
私とは違う個性。理解できない個性。
正解でもなければ愛でもない。
だから、信じる必要も無い。

ホントのことはそこにはない。

私は、あなた達の見ていない世界に生きてるからもういいの。
別世界でお互いに頑張りましょうね。

そんな感じ。

誰もが自分の好みの世界で生きれたらいいよね!

歪んだ認知の者同士、お互いに治しあっても平行線。声の大きい方、立場が強い方の認知が正しいとされてしまうだけ。

誰も正される必要なんてない。