風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

それな!

年に一度あるかないかのボイスレッスン。

同じレッスンを繰り返しているので、自分が変化したのもよくわかる。

なんとなくだけれど、今日はよかった。

堂々と歌えるようになってきた気がした。

自分を出すことに躊躇が無くなってきたからだと思う。

 

さて。

 

わたしはいつも考える。

人への過剰な押し付けは愛なのだろうかと。

 

「愛してるからやってしまった」「好きだからしょうがなかった」

これって、暴力も押しつけも同じセリフで語られる。

「だって好きだったんだもん」以上。

 

難しいよね。

 

「結婚しないの?」「どうしてなの?」「子ども産まないの?」という親切な問いかけが失礼に当たることが、わかる人とわからない人がいる。

私からすると、普通にわかるだろ、と思う。

で、これがわかっていても、自分の発言が失礼に当たるかどうか、失礼になっていたとしても「相手のことを思って言ったことだから」と信じ込んでしまう。

「どうして子どもつくらないの?」と聞かれた人が腹を立てれば「そうだよね、今の時代、その質問はあかんよね、聞いちゃいけないよね」と、言うのが今の常識。

同じように、相手の意向を尋ねないで、押し付けるのもNGであるはずなのに、それを「だって相手のことを思ってたんだもん、いつか通じるもん」で済ますのはどうしてなんだろうか。

 

「あちゃ~失敗した~」って頭抱えてたらまだかわいいけど「え?何が悪かったの?いいじゃん、いつか(私の愛を)わかってくれると思うし」と開き直られると、もう意味が分からなくなる。

 

失敗でいいのに。失敗にしたくないんだ。

その突っ張り加減がもう、なんだかもう・・・である。

毒親と言われている人たちの精神構造はこれかもしれない。

 

昔は躾と称して暴力を振るっていたのが、今は暴力と認められるようになった。

躾と言う名の暴力を、「愛」とは言えなくなった。

だけどまだ、「いいよね、愛だったよね」と言いたい人がいるんだなと思うと、それはそれで「それな!」な案件だと思う。

 

愛があるかないかの話ではなくて、相手が嫌がってるかどうかの話である。

それを「わたしには愛があるから」で終わったら、相手のことなどどうでもよかったんだなってことになる。

それが愛なのかどうか、わたしには判別がつかない。

 

嫌がっていた相手のことをちょっと想像するだけでいいのに。

 

わたしはよく、「空気を乱す」と言われる。

嫌なことは嫌だと言い、押し付けられたら反発するからだ。

だけど、相手が必要ないものを押し付けたことはほとんどないと思う。

相手にとって何が必要かどうかを、私はかなりリサーチしてから提供するからだ。

必要のないものを渡さないという、いつから芽生えたかわからないポリシーをもっているために、「ほら、これがいいのよ」と気軽に自分だけに効果があるものを他人に勧めたがる人の気持ちがわからない。

 

渡されて困る、押し付けられてうんざりする・・・は場を乱さないから、相手の嫌がり具合が見えない。だから、許されてるんだろう。

 

図書館司書をしていて、レファレンス業務に就いていたから

「相手の必要なものをきちんと情報として届ける」のは、当たり前のことである。

必要のないものを勧めるのは司書として失格である。

どんなにお勧めしたい本があっても、ぶしつけに勧めたりしない。

 

プロ意識ってやつです。

 

そいういうこともあって、「わたしはこれがいいと思うの~」「あなたもいいと思うでしょ?」は全く理解できないのだ。

 

テルマンでも、夜のお仕事でも、なんでもそうだけど

相手の求めるものを察知できなきゃ仕事にならないはずだから

そこそこ世間で「いい人」と言われてるなら、それぐらいできて当たり前だと私は勝手に思い込んでいた。

でも、そうじゃなかった。世間は「相手の求めるもの」などお構いなしに、「自分がいいと思ったものは勧めてよい」なのだ!(びっくり!)ということに、今更気づいたよね。

 

申し訳なかった、そこまで期待して。

自分の基準が高いだけだった。

 

私のような嫌われ者でさえ、相手の望むものを察知できて、いらないものをあげたりしないんだから、普通の人はもっとできてるはずじゃない?って思ってた。だから、「なんでわからないの!」っていう怒りになった。

 

私の思う「愛情」と、違う「愛情」の世界があった。

 

それは全く交わっていないから、お互いを理解できない。

 

たくさんの果物を机の上に並べて「どれがいい?」と言ってくれるのが私の思う「愛」であり、その中から、ひとつを選んで「ほら、これ食べなさい」というのが、私が理解できない人たちの「愛」なのであった。

 

お、なかなかいい例えになったじゃないか(#^^#)

 

昔は、押し付け愛をしてしまう人たちが、悩んで相談する場所があって、みな真摯に自分を見つめていたものだが、今はずいぶん違うようだ。

肯定しちゃえ!みたいな?

「悪くなかったよね、わたしたち!」ってってって・・・てってれってて~(^^♪

 

一周回ってそういう時代になったのかしら。

 

すげ~よ、ついていけないよ、昭和のおばちゃんには難しいよ。

 

心に葛藤を抱えて生きることすら難しくなったんだろうね。

でも、わたしは忘れたくない。

人生に深みが出るのは、自分がやってしまったことの後悔や悲しみを抱えているからだということを。

 

そして、それでも人は、前を向いて明るく生きて、愛をもって死ねるということを。

 

明日もレッスンの続き。「もう一回来ませんか?」と先生がおっしゃったとき「やっぱりか~最初から申し込んどけばよかったかなあ」と思ったことでした。

一回では終わらないの~わかってたの~。

 

センター試験や受験のお子様と戦っていらっしゃる親御さん、倒れないでね!