絡まった糸はどうなるのかな
今日、ある所からの帰り道、急に昔の知り合いが浮かんだ。
「みかみさん、人は人なんやから。みかみさんはみかみさんのままでいいねん。いちいち、人の言うこと鵜呑みにしたらあかん。」と、伝えてくれた。
また自分を否定するところだった。
ダメ出しは得意だ。
バイクに乗っていると、お腹の中に「めちゃくちゃ怒ってる女の子」が出てきた。
私は、必死で慰めた。
わかってるよ、あなたが必死で頑張ってくれてたことを私は否定したりしない。
「間違いだった」とか、もうやめたほうがいいだとか、言われることが多いけど
あなたがやったことを私だけは絶対に否定しないから・・・って。
親子の関係でできた心の癖がある。
それを何とかすればいいと簡単に言う人がいる。
だけどさ、その他にも、この社会の構造からくる理不尽なこともあるわけよ。
私の視点は、どこか人とずれている。そのずれをやっと認めようとした矢先、また、自分を疑うような言葉をもらってしまった。だから、上記のように、私の中にいる少女が暴れだしたのだった。
私には、社会の理不尽さを黙って受け入れる性格ではなくて、それは、親子関係から来たものではないことは間違いない。
みんな、たくさんの成育歴の中で絡まった糸でできている。
私ができることは、絡まった糸ごと全部肯定することだ。
無駄だったこともなければ、ダメだったこともなければ、間違いだったこともない。
今、必死になって「変わらなければ」なんて思う必要もない。
誰一人、ほんとの意味で、客観的で冷静でいられる人などどこにもいないのではないかと私は思ってる。
癖のない人なんていない。
言い方ひとつ、言われ方ひとつで、人生が動く。
人と人とが出会う時、そこに、絡まった糸の存在とも出会う。
素直になれない人もいる。攻撃的な人もいる。
そして自分も場合によっては攻撃的にもなってしまうだろう。
そのすべてが愛おしいと思えればいいな、と思う。
攻撃してしまう自分をさらにダメだと追い込むのではなく。
だって、相手の人生も、むちゃくちゃなんだよ、きっと。
私に対して冷静になれないぐらいに。
それに対して、私がどう対応してしまっても、それは仕方のないこと。
どこかに「理想の対応」があるかのように言われてきた。
どこかに「理想の人間関係」が存在するかのように言う人もいる。
それって全部、外側から見たものでしかない。
知人が、私に伝えてきたように「他人の言うことだからね、みかみさんはそのままでいいからね」・・・以上である。
辛いでしょう、と言われる。選べるんだから、と言われる。
言われる、言われる、言われる。
自分で思ったことじゃなかった。
どこに標準があるんだろう。どこに「辛くない人生」があるんだろう。
誰だって、そこそこ、波風立てない生き方をしたいんじゃないだろうか。
それでも、波はそこここに立ってしまう。
我慢してる人は、早々に病気になったりする。
すべてが愛だと唱えるものもある。
相手からの嫌味も批判も暴力も。
でもそれは、自らがそう思った時にしか発動しない。
そして、相手の暴力は、自分が起こしたものだと言われても、じゃあ、キリストの磔は自ら願って、キリストが起こしたものなのかどうかわたしは知りたい。
お釈迦様は、お腹を壊して亡くなったそうだけど、それもお釈迦様が引き寄せたのか知りたい。
屁理屈でもなんでもいい。
だってそう思うんだもん。
でね。無理したらあかんと思う。
「そんなんだから」と言われたって、「そんなんだから」でいいんだよ。
そのままで安心できる世界を見つけに行けばいい。自分が変わればってよく人は言うけれど、よく見てごらん。自分を変えるために、場所を変えてる人いっぱいいるよ。色んな人と別れて、引っ越して、そして、新たに居場所を得たところで「自分を変えることができてる」んだよ。決して不快なところにとどまったまま、「自分を変えて」ないよ。
わかるかな?「自分が変わったから」と「言えてしまう人」って、「言える場所に移った」んだ。安心できる場所を見つけたってこと。
まず環境を変えたり、会う人を変えてる。
その前提をきっちり見て。
辛いところからは逃げるの。嫌な場所は離れるの。そこから始まるの。
自分を大事にしていこうね。