剥がれ落ちる
自分を認め、自分を知る。
それはとても痛いこと。
剥がれ落ちてくる偽りの自分。
そこに一筋の光はあるのかな。
今日は、とても疲れる話し合いをしました。
その中で気づいたことは、「私が引き起こしている”なにか”がある」ということでした。
事実としての私には、落ち度はないし、間違っていない。
だけど、これは紛れもなく、私の中の何かがやったことだと思ったのでした。
一度だけ、不思議な時間がありました。
自分が一瞬自分ではなくなったような。
何を話したかも記憶からは消えています。けれど、一瞬現れた「わたし」がどこから来たのかわからないのですが、たしかに「あれ?自分じゃないみたい」と思ったことはたしかです。
そこからものすごく力強くなりました。
なんだったんだろう。
昔もたまにこういうことがあって、「三上さんに言われたとおりになりました」って言われるんですが覚えてないとか。何か口走る瞬間があるようです。
それはともかく。
この事件を引き起こした「わたし」について、しばらく思いを巡らせることになると思います。
ある種の人々にとってわたしは「かまいたくなる」「助けたくなる」人物に映るみたいです。そして、自分の思い通りの「救い方」に沿って行動してくれそうな人物として対応されてしまいます。
だめんずにひっかかるパターンではないかなあ。
この癖というか、醸し出してしまう「なにか」は、私にはコントロールできなくて、相手に勘違いさせてしまい、「あなたのことを思ってここまでやったのに」と言われてしまうのです。
でも、私が助けてほしいのは「そこじゃない」から、相手は傷つく。
期待通りにふるまえないし、期待通りに感謝もできない。
怒りをぶつけられることもあれば、こうして勘違いで「やってあげたのに」思われることもあれば、「なんでも言える人」を思われて時間を奪われることもあります。
ただ私は「ここにいるだけ」で「自分のことを素直にしゃべっているだけ」なのに、相手の感情や想いを刺激してしまうようです。
そう、まるでペットのように。
強い意思を見せると「そんな人とは思わなかった」と言われるのは、私がおとなしいペットだと思われるからなのかもしれません。
人と楽しくおしゃべりしたくて、笑い合いたくて
共通の話題を見つけて、自分のことを話して、近づこうとしただけで
「従順な人」「わかってくれる人」と勝手にイメージされちゃうというのが
やっとやっと腑に落ちました。
誰とでも仲良くなりたいけどね、コントロールされたくないんだよ。
友人と話していて、「普通の人は、そこまで自分のことをさらけ出したりしないからかなあ」と分析してもらって「人との壁を低くすると、まるで自分の家来であるかのように接しようとする人の餌食になるかも」ということに気が付き(遅い_| ̄|○)、それを私の落ち度と責められてもどうしようもないのになあと思う今日この頃です。
「助けてあげるよ」「力になるよ」と言いつつ、「だから言うこと聞いてね」「反論しないでね」と言われると私はキレます!
勝手に弱者扱いして、弱者なら何を言ってもいい、何をさせても文句言われないと思ってるってちょっとひどくね?
それを巷では「友達」とか「親友」とか「仲良くなったのに」と言うみたいです。
ちげ~し
あ、言葉が乱暴になりました。
子どもが不登校でって言うと、引きこもっててって言うと、「困ってるのね」になるんですよ。だからもう、それが嫌で嫌で。宗教の勧誘やめちゃくちゃなアドバイスを死ぬほど受けて、それを断るのにどれだけの労力を使ったか。それがなければ、不登校生活はそれほど困らない。
「こういう育児が正しい」を、「言ってもいい人」が「不登校児の親」だと思われてるよね。
そうですね、そこを私は「違うんだよ」と訂正したい。
相手が女だとわかると態度を変える男とか、子どもとみると偉そうにする大人とか、みんな同じです。
子どもが不登校や引きこもりだからって、あなたの癒しの対象にしないでください。あなたの「相手をいいように変えてあげたい」の願望の餌食にしないでください。
本当に助けてほしいことは他にあるのです。