子育てというもの
私は不良な母親なのである。
こんな親で申し訳ないね~と思いながら親をしている。
しかしだ。
どんな親にも説教するやつがいるのがこの現実社会だ。
それは、何をしていようがどんな生活をしていようが
説教するスピ系がいるのと同じことだ。
やっとそれが腑に落ちた。
誰もが、自分の世界を合致しない子育てしている人を見ると
ひとこと言いたくなるらしいし
自分の世界にふさわしくない生き方をしている人にもひとこと言いたいらしい。
よく戦ってきた。
どうして戦うかって?
それは私が親切すぎるから。
私には相手にわかるように説明したいという「能力」があるからなのだ。
はっきり言って、説明する義務はない。
子育ての細かいことまで言ってあげる必要もない。
なのに、私は相手と分かり合いたくて努力してしまう。
その結果、相手からマウンティングされることも多々ある。
私が説明すると、「この人は困っているらしい」と勘違いするようなのだ。
この現象は仕事でもあった。
私は、自分の気持ちを説明するのが普通である。
親が察しの悪い人たちだったため、とことん説明する必要があり、それが私のデフォルトになった。
けれど、世間一般では、自分の気持ちを説明してくれる人=悩み相談、打ち明けてくれてるということは、説教してよろしい人ですね?みたいになるらしい。
私自身は、誰の話を聞いても、「そうなんだ~」で終わるんだけどな。
そして、相手が求めていることは、どんな情報でも差し出すんだけどな。
いちいち相手の話をジャッジして「言ってあげない」というケチなことはしない。
自由な生き方をしている「つもり」の人は多い。
そういう人ほど、他人の生き方にケチをつけていく。
それってきっと、トラウマなんだろうと思う。
子育てに口を出してくる人って、自分のコンプレックスや、自分の育ってきたところに対する「何か」がある。
勝手にそれと同一視して責めてくる。
わたしはあなたじゃないし、私の子どもはあなたではない。
うちの子に何一つ手を出せないくせに、偉そうに説教すんなよと思う。
そういう人ほど、実際に子どもに会ったら「これは難しいですね」とか言ってさっさと手を引くんだ。経験済みだから。
ということを思い出すための出来事があった。
今までのこともそういうことだったなあと思う。
偉そうに言ってくる人は何一つできない。
けれど、色んなことを乗り越えてきた人は、さっと何かを差し出してくれる。
いいも悪いも、知ってるも知らないも、そのまま伝えてくれる。
だから、私も常に、出し惜しみをしない。
誰に対しても、知ってることは全部出す。
情報ってそういうもんだし。
条件付けないと教えてあげないなんて言う人とは付き合えない。
↑
これこれ。
他にもあった。
もったいぶってね。
それがいかにも「自分のやり方だ」っていうのね。
親にそうされたんだろうか。条件付きの愛しかもらえなかったんだろうか。
私はいつも思う。
どんな制度であれ、ボランティアであれ、なんであれ。
悪用する人は必ずいる。だけど、悪用してでも使いたいという思いがあるなら
それはきっと「困った人」なんだと思う。
困ってない人は悪用なんてしなくても生きていけるから。
困ってアドバイスや情報を求める人たちに
いちいち条件を突き付けて「こうじゃなきゃ教えられない」「こうしなきゃあげない」と言うような人に、私はなりたくない。
素直でいたい。
私が不良親であるのは、その一点において発揮される。
条件は付けない。だから、厳しい。
「学校へ行ったら○○していい」とか言わなかったもん。
行きたくないの?そうなの~で終わり。
人の困難は人それぞれだ。誰かの尺度で困っているわけではない。
子育てに困っている人がいるなら、条件を付けずに助けてあげたい。
子どものためになるのならないのはその後の話じゃないか。
親を救ってなおかつ子どものためになる方法をまず考えないとね。
不登校カフェはそういう場所にしている。そういう場所でありたいと思っている。
頑張れ、わたし(#^^#)