ドンマイ!
ショックな出来事があって、ご褒美に帰り道でこういうの食べた(#^^#)
↓
たまには、ショッキングなこともあっていい。
ご褒美食べれる(笑)
自分の欠点を受け入れ始めると、見える景色が変わる。
わたしはこういうのが好きだったんだなあってはっきり見える。
それまでは、欠点を覆い隠すのに必死で、何を大切にしているかも見えなかった。
大切にしている、と言葉にするだけで批判されると思った。
批判される?誰に?自分に!
さっき、「英雄たちの選択」というテレビ番組を見ていた。
北海道の端の島のアイヌの人たちを、ロシア側から日本側に持ってくるために
病気の時にお見舞いに行ったりしたそうだ。
弱っている人を助けることで、自分の味方につけるというやり方は、私にはとても違和感がある。
宗教も同様にして広がっていったのだろうと私は推測する。
人の心を掴む技術としてそれはありだろうし、それを愛だと思う人もいるだろう。
でも、なぜだろう。
私には、そこに違和感を感じる。
「人を支配するための優しさ」だろう?って。
私はある人種の人たちにとって「優しくない人」だと思われている。
それが自分の罪だとずっと思っていた。
好きになってもらうために優しくする、というのが私にはできなかっただけだと思う。
プライドが高いと言われたらそれまでだ。
けど、相手を対等に見ていないから優しくできる・・・ってね。
そういう関係性で始まると、どうしたって「友達ではなくなる」よね。
上手く言えないなあ。
人としての上下関係というものは、「この人たちを改宗させたいから」とざっくり全員を下に見てしまうようなものではない。
相手より、何を知っていて、何を教えることができて、人間的にも豊かであることがいわゆる「自然に尊敬されるに至る」のであって、年齢や性別や人種だけで相手を見下ろすのはおかしなことだという考えを、私は変えられない。
それに反発して生きてきた半生だったとも言える。
誰に受け入れられなくても、私はもはや「そういう人である自分」を変えるつもりはない。
世の中には、「受け入れられること」を第一にする人もいるし、それはそれでいいのだと思う。
けれど、その陰で泣いてる人がいるのなら、私は「受け入れなくていいんじゃない?」とそっと言おうと思う。
たまに、私のそういう部分を利用して、自分の困難を乗り切った後で
「でもやっぱり三上さんは他人を受け入れたほうがいいと思う」などとしたり顔で言われることもあって、ホントに傷ついてきた。
今はもう、そういうことはない。
私自身がそのままを生きることにしたから。
昔なら、私が排除されていた場面でも、今では私の考え方を支持する人がどんどん増えていて、私の代わりに怒ってくれたりしてる。
びっくりする変化だと思わない?
諦めず、丁寧に生きていれば、変わるんだよ(*^^)v
昔から私は「お助けマン」なんだな。
それも変わらない。
どんなに「自分中心で生きる」っていう言葉を聞いても、変えようと思っても、変わらなかった。誰かの手助けをすることは、誰かとつながるコト。そして、誰かに助けてもらうコト。
知恵と勇気があればできること。
穏便な生き方とは正反対だけど、だからこそ、できることをやるのだよ。
最近、花の写真を撮るのにハマってる。
明日もいい一日になりますように~。
読んでくれてありがとう。