怖くても
昔は、言葉にするのが怖かった。
言葉にした途端、「お前はなんてひどいやつだ」いう言いがかりが飛んでくる。
「人の気持ちがわかっていない」とか「どうしてそんなこと言うの」とか。
いつ、どこでそのように思い込んだのかわからない。
でも、言葉にすることは危険なことだと私は長い間思っていた。
私の気持ちは、書くことに向かい、口に出す時はよっぽどの時だった。
けれど、結婚してから、家族に対しては言葉でわかりあいたいと思った。
それが私の希望だった。いつか、私の言葉を否定しないで聴いてくれる人が現れるだろう、その人と家族になりたいと。
しかし、希望は空しく、また、私の言葉は受け取られることはなかった。
ただ、ブログを書くことで、私の言葉を受け取ってくれる人がいることを知った。
私の文章を喜んで読んでくれる人もいた。
私自身が罪なわけではないのだと初めて知った。
そこから、少しずつ考えを口に出す練習をしてきたように思う。
私の転機は、去年一年間の転職期間だった。
とんでもない人に会い、とんでもないことがたくさん起きた。
パートナーもいないから、引きこもってやり過ごすわけにはいかないし、凹んでいる場合でもない。とにかく自分を守るために、自分自身の口から説明する必要に何度も迫られた。
嫌われたかもしれないし、その場で嫌な顔をされたことも何度もある。
それでも私はくじけなかったし、自分を嫌いにならなかった。
その繰り返しが練習となり、私は今、人間関係は「我慢しない」を基本とするようになった。
今の職場である人から言われたことがある。「色んな経験をしているなら、わかるでしょう?この人には言っても無駄なの」と。
私にそう助言した人は、黙っていることで自分を守ることを選択した人だ。
経験を積むことは、黙る場面を知ることではない、と私は思う。
言わないほうがいい時もある。けれど、その黙った時の気持ちが「我慢」であるのなら、ずっと相手との距離は変わらないままだと私は思う。
言葉選びは慎重にするが、自分の気持ちを伝えないという選択肢は私には、ほとんどないのだと思う。
相手に伝わるかどうかのチャレンジをしたい。
それを無駄だと思うのか、諦めたほうが賢いと思うのかはそれぞれの趣味であり、押し付けられる正義ではないと思う。
パワハラやセクハラが、ようやく日の目を見るようになったというか、やっと問題視され始めた。
反論してこない弱いものに対して、言葉の暴力をふるう人がたくさんいる。
私たちは、そういう側面を持った存在である。
そして、「反論しないだろう」「反論しても無駄だろう」「反論するなんて大人じゃない」と言われ続けてきたために、諦めることがまるで成熟した人の代名詞であるかのように思われてきた。
長いものに巻かれるのが良しとされ、学校であれば教師のお気に入りになればいい、というような風潮がまだまだある。
だから、意見を言うのはとても怖いと思う。自分の中の違和感を言葉にするのは怖いと思う。
それでも私は、言葉にしていきたい。言葉にすることでぐっと近づいた関係性もあるし、少しずつでも相手の認識が変わってくる手ごたえもある。
たくさんの失敗を繰り返さないと、スマートな言い方はできないけれど、それも「うまくやれるまで言わない」と思っていたら一生言えない(笑)
「言葉で傷つけたら一生残るから」と同年代の女性たちは口にするけれど、人間ってそんなに柔でもないし、そこまで人間を信用しないの?とも思う。
言葉だけで人は傷ついてしまうだろうか。人と人は、言葉だけですべてを伝えていないと私は思う。その場の雰囲気や、その人の視線や態度、言葉を含むすべての要素が、傷つけたりつけなかったりするのではないだろうか。カバーできないということは、その言葉に「傷つける真実」があっただけなのかも。
言葉だけならリカバリーできる。でも、言葉に裏に気持ちが残っていればリカバリーは難しい。そんな気がする。
まあ、そのようなことも含めて。
それでも、それでも、私は伝えていくだろう。
自分をあけっぴろげにして、思ったことを。
その中でできる友達を大切にしたい。