風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

離婚について語ってみようか

私が離婚したのは、おおよそ5年前ぐらいか。

あ、記念日過ぎてるじゃん(笑)

 

今日↓の記事を読んだことで

私もそろそろ離婚についてのことを

きちんと書いておこうと急に思い立った。

(確定申告仕事から逃げたいかもしれないwww)

 

aria.nikkei.com

 

私の離婚については、ほぼ誰にも話していない(概略は話したことあるけど)し

私のような離婚をした人に会ったこともなかったので

なんとなく、世間一般に合わせたような理由づけをしていた。

 

しかし、Twitterをしたり、恋愛を重ねる中で

離婚した理由が浮き上がってきたように思う。

その時はわからなくても、事後にわかることって意外と多いのかもしれない。

 

積み重なる夫婦生活の疲弊があった。

子ども達の教育への考え方の違いも大きかった。

鬱になった時の対処に、今も悲しく思う出来事があった。

 

すべてを総括しても「そうはいっても、我慢できたんじゃないの」と言われてしまうという現実がある。

 

私自身、自分の気持ちに正直に生きていきたいと思っている。

自分に嘘を吐くことは、周り周って他人に嘘を強要し、自分を壊してしまう、と思っているからだ。

時に嘘も必要だということは、今はわかる。

というのも、自分を大事にし、自分に嘘をつかないという約束を自分にした上で

他人に違うことを言わざるを得ないことがあり、技術としてそれを選ぶこともできるのである。

しかし、大抵の人は、自分が嘘をついていると思っていないし、自分が嘘をついたことが「思いやり」だと信じていて、そこは私と相容れない部分なので、悪しからず。

 

元夫には自分の気持ちや意見を常に伝えてきた。

しかし、元夫は気持ちを言葉に表すのがとても下手なタイプで

「言葉にしないことが善である」という古風な(笑えるけど)人であった。

それ故、どうして私が意思疎通をしたがるのか理解してもらえなかったのだろうと今ならわかる。

 

わたしは、言葉にしない人たちの心を読むのが得意(親のおかげ←ほめてない)であり

言葉が苦手な人たちが私を頼ってくることが多々ある。

なので、結婚当初は楽しかったし、当然言葉を必要としない心のやり取りというものが心地よくてうまくいってると思っていた。

 

しかし、子どもを育てるうえで、言葉は必須だ。

二人の間に言葉はいらなくても、保育園や学校とのやりとり

子どもの教育方針について、もっと言えば、この家族をどうしていくのか、といった部分。会話が成り立たない相手と暮らすのはとてもしんどいことだった。

 

気持ちを察して欲しい男に対して、あなたの気持ちを察しても、私は同意できないんだけど?ということを説明するのはあまりにも困難だった。

 

「察してもらえて当たり前」「察して俺の思い通りになって欲しい」という気持ちを元夫は「封印されられた」と思ったに違いない。私に対して、だんまりを決め込んだ。

 

だって、私は、察することを止めて、言葉で伝えあうことを選んだのだから。

 

そうしたすれ違いの末、私は彼を愛せなくなった。

 

「夫を犬と思えばいいんじゃない」という結婚マニュアルも存在するし、実際、夫に傷つけられても離婚しない人ばかりだ。

いや、私も傷つけられている間は離婚を考えなかった。

傷を自分で受け入れて、自分で何とかきたその瞬間がきたのだった。

「あれ?わたしは彼を必要としていないんじゃない?」って。

 

傷ついている時は、まだ、「夫に癒してもらえるんじゃないか」という期待を持っていたから離婚を考えなかった。

けれど、自分で自分を癒しているうちに、「私がこれほど必死になって保とうとしているのは誰のため?何のため?」という疑問に、私自身が耐えられなくなってきたのだ。

 

元夫を悪く言うことはいくらでもできる。不満も不平もある。

それは、どの夫婦でも同じだろう。

でも、そんなことが問題ではない。

わたしは、自分の気持ちを裏切れなかったということだ。

自分をどんなに騙そうとしても、身体は弱ってくるわ、心は死にそうになるわ、いやこれまじで無理ゲーでしょって。

 

離婚してから、いくつか恋をした。

自分のスペースを守りつつの恋だから、同棲もないし、片思いに毛が生えたようなものもある。

だけど、今の私にそれがちょうどいい恋のやり方だった。

好きな人がいて、おしゃれして会いに行くことがどれだけ楽しいか。

まるで話の通じない宇宙人と暮らしていたことを思えば

ささいな気持ちの高揚が私の人生を前に進めたのだ。

 

くっついたり別れたりするたびに

「自分は何を求めていたのか」「この人と何がうまくいかなかったのか」を

分析好きの私は、必ず分析している。

結婚を我慢しているだけの人生なら、こんなにも自分を知ることはなかっただろう。

 

人に会う、ということは、自分を知る、ということだ。

私は、離婚がしたかったというより、結婚しているから男性とは仲良くなれない、なれても後ろめたい、というものを剥がしたかったのかもしれない。←結婚したままうまくやれる人もいるのかもしれないが、私は、まあ山羊座だしwそこは、無理だったよ。

気持ちを口にしない男は、「やめてくれ」とさえ言わないのだから、自分で自分を縛って安心するしかなかった。自己規制をやめるには、離婚しかなかったんだな、当時は。

 

男は、口に出さなくともわかってもらえる、という父親を見て育つため

議論が苦手で、自分が正しいと思ったことしか受け入れない傾向にある。

そういう人と一緒にいられるかどうか。

わたしは、子どもを育てる時にはとても弊害だと思うんだけどね。一対一ならやり過ごせても。

 

20代のお互いに未熟な時に結婚したために

そこからの成長がお互いにずれる。仕方がないが残酷だ。

女性に面倒を見てもらうことしか知らない男が、老人になってぼーっとしているのを見かけないだろうか。

それが、女の与えた愛の結果だと思うと、女が愛だと思っているものは、愛でも何でもないんじゃないの?自己満足に過ぎないんじゃないの?とすら思う。

 

私の愛の定義はいつもそうだ。自分が得するために相手に尽くすことを愛とは言わない。

 

人間関係がうまくいかなかったおかげで

わたしは色々なメソッドや考え方を知り、実践してきた。

離婚もそのひとつだ。

うまくいってたら、自分のやり方を人に強制していたかもしれないなあと思うと

世間で言われる失敗をしてきたことは宝になると思った。

 

すべては人生の流れの中にある。

 

離婚、というイメージが少しでも変化するといいな。

ポジティブに離婚しよう。そして新しい人生を歩もう、というように(*´ω`*)

 

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