どんなものにでも人にでも
親に縛られていたあの頃は
「きちんとしたもの」しか選べなかった。
清く正しく美しいものであることが
一番の条件であった。
しかし、私が選ぶのは「あまり正しくないもの」だった。
「だった」と言い切るには早いのかもしれない。
今回、新居を選ぶ際にも、少し怪しげな不動産屋にしたからである。
清く正しく美しくを親から押し付けられていると
無意識だろうか、少し外れた道をいきたくなるらしい。
私が今まで心魅かれてきた人物(まあ、男性ねw)を見ると
満たされていない人たちだったことがわかる。
私は、彼らの「満たされていない部分」に入り込むことで
愛を確認しようとしたのであろう。
それは、満たされていなかった母を満たそうと努力した過去の栄光に追随するものであった。
愛の根源は親に行き着く。
ダメンズを養成するのは、「親にとってのいい子」である。
しかし、もう一方で、「清く正しく美しく」の罠にかからず
ピンチの時にはどんな手段を使ってでも
自分を生き延びる術を身に着けていることに驚く。
綺麗ごとが好きな人たちは、泥を飲まない。
助けてほしいと願いながらも、決して「しゅっとした態度」を崩さない。
泥を飲むくらいなら、苦渋に満ちた結婚生活でも我慢できると思ってる人たちである。
私はおそらく、そういう意味で、冒険家でもあるらしく
危機を脱出するためには何でもしてやろうと思うし、何でもしようと行動して失敗も成功も味わっている人の話を聴くのが大好きなのだ。
自分を救うためには何でもする、という決意と、何でもしてきたという経験は、人生の糧になると思う。
優等生コースから外れない人生に自分を縛り付けるほど愚かなことはない、と私は思うのである。
「人生、キレイごとではやってられない」という考え方と「理想を突っ走って生きていく」ということを、私は同時にやっていくのだと、今日思ったのだった。
経験しなければ見えない風景がある。
信じて失敗することもまた、楽しい人生の一コマなのだ。
不信感のまま、小さい城に閉じこもっているよりも、よそから来た、何者かもわからないような人間の手をつかんで逃げたほうが面白い。
おとぎ話のようにね。
出会った人はすべて縁があり、私のために現れてくれた人。
出会いがどんな別れにつながっても、出会った時の私は確かに、あなたが必要だった。
その人を否定することは、あの日の自分を否定することだと思うから、「今の私には必要なくなったんだね」と静かに思いたい。
人は、出会いと別れを繰り返す、という昔からある言葉を噛み締めている。
次の誰かに出会うために。