風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

日々色々なことを想う(だって人間だもの)

TOKIOの会見については、特に何もない。

ただ、先日ツイッターで見かけた「戦国時代なら人殺しも英雄だったけど、今は殺人罪で当たり前。セクハラもそれと同じ。昔の感覚を引きずっていることがおかしい」という内容が、昔から私も思っていたことだったから「それな!」と思った。

 

なんだか、スピ界隈でまた、私から見れは変だなと思うことを言ってる人もいる。それは、自分の中にある感傷(男性かわいそうというような)ものを内包しながら、スピの視点を入れてるだけだからだなと思う。

自分の感情を認めているのは素晴らしいことだけど、感情は感情であり、被害者を抑えつけたり、被害者を叩く理由に使われるような発言だけは控えたほうがいいんじゃない?と個人的には思う。

 

神様は「死」がお嫌いだという文章を読んでも「昔はたくさん人を殺す人が神様になってんじゃん?」と思うし、神社でも寺でも殺戮はあった。教会も性的虐待が行われてたし。そういう歴史を無視して、見ないふりして進むことに何の意味があるのかな。

 

自分の行動を律することや、自分なりに規則を見出して生きていくことはかまわないけれど、「これが常識だ」「これが当たり前だ」「これが神様だ」という決めつけて、他人を巻き込むことに、私はとても違和感を感じている。

 

大量殺戮が昔は英雄だった。

虐待しても、スポーツをするためには許された。

セクハラしても、男としてのメンツを保つために許された。

虐待は「しつけ」と呼ばれた。

メイドを調教することが、昔の主の仕事だった。

 

このような変化で「大量殺戮できないこと」「セクハラしたら罪に問われること」などを「かわいそう」「どうして」と思うのであれば

それは自分が特権階級でありたいという欲とセットなのかもしれないし

特権階級を保つことが社会にとって必要だという常識を持っているからかもしれない。

 

私にはわからないけれど。

 

抑圧された自分が、抑圧する人とうまくやっていけたから。

だから、あなたもやりなさいよ、そうしないとうまく生きていけないわよ、というオチはわりかしどこでも目にするけれど、私はそれが人類の進化につながるとはとても思えない(おっきくでたなw)

 

自分が得するか、損するかで生きている人とは、話がかみ合わないことが多々ある。

 

今のヒーローと未来のヒーローは違うんだよ。

だから私は戦国武将を好きになるコトはない。萌えない。

時代が変われば殺人者になるような人を好きになれない。

 

それを女が許せばいいとかほざいている人は、許せばいいんじゃない?って思うけど。

許すってそういうことじゃないだろ、その人たちが背負った罪を一緒に背負って歩く覚悟のことだろ?

 

セクハラで傷ついた人たちが声を挙げたのを、私は歴史の転換だと思っているし、素敵なことだと思う。毒親問題も、ACという概念が入ってきた時にはさんざん叩かれたものだし、勘違いもされた。でも、二十年経てようやく「親の毒にやられた人たち」が普通に語れるようになった。

親をかばうだけが問題解決にならないことも浸透してきた。

虐待への理解も深まってきた。

誰もが対等であり、搾取されないのが当たり前になるといい。

 

いじめられっ子が自分がいじめられたことを否認するのは、自分がいじめられるほどの人間であることを認めたくないからだけれど。

女性が女性を叩くのは、それと同じ感覚なのかもしれないと私は思っている。

男性の味方をし、男性についていれば、自分が女性として「見下げられる可能性」を棚上げできるし「わたしだけはそんな女じゃない」と思える。

で、それは決して女性の地位を上げないし、女性を救うこともできない。

 

小さな自分の世界で、パートナーシップとか女性性とかなんとかで幸せになる分には誰にも迷惑をかけないが、こと大きな社会問題に言及する時には、自分が小さな世界でしか物事を見ていないことも自覚すればいいのに、もったいないなと思う。

語る次元が違うというか、土壌が違うというか。その区別すらつかなくなるんだろう。

 

私自身は、もっともっと大きな、破壊する女神たちが大好きだから

家事することが女性のたしなみだとか、一夫一婦制で守られたいだのとか、んなちっこい女性性にすがって生きるのはごめんだ。

女性としてのエネルギーを「そこ」に使いたくないっていう感覚。

 

厳しさも、怖さも、優しさも、寛大さも、悲しみも、すべてを包括するものだと思うから。

 

私は立派な人ではないし、人を傷つけるし、優しくないし、甘いところばかりだし、ダメ出しくらってばかりの人間だけど、それは今の差別的なものを許すための道具ではないと思ってる。

自分がダメだからといって、誰かが誰かを差別している今の現状にOKすることはない。

 

嫌なものは嫌だと言う。それが自分を尊重することだと思うから。

 

そうそう、昨日、面白いことがあった。

しゃべりだしたら止まらない人がいるんだけど、その人の話を聴いている最中に、頭の中でツッコミが入った。今までは「どうやって私が機嫌よく話を聴いてあげられるか」「話が長いと思って批判する自分との闘い」をやっていたんだけど、それが全くなくなくなって「話長いよ」「その話、いらないよ」とマジでキレてた(頭の中でねw)。ようやく本音を自分に許すことができるようになったかと、嬉しかった。

そうやって、自分の中の本音を受け入れてあげると、おしゃべりな人に対して優しくいられるのね。

「こいつの話、うぜ~」って思ってる自分を許す。批判しない。「だよね~」って逆に肯定してあげる。

すると、納得して治まるんだよ。

 

「嫌だと思った上でどうするか」は自分が決められることだから。

 

TOKIOの会見と、そのことに便乗する色んな人への想い。

読んでくれてありがとう。

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