痛み
私は、痛みと共に人生を生きてきた。
心の痛みというものと共に。
身体の痛みもそうだけれど
痛みは誰にも理解されない。
この痛みをわかるのは、自分だけだ、という孤独感がそこにある。
「痛みをわかってあげましょう」と言える人は
痛みを知らない人だ。
痛みはわからない。わからないから痛いのだ。
子どもが引きこもりや不登校になっている時
「子どもをわかろうとする」親が非常に多い。
わかるわけないやん、わかってたらこんなことになってないやん、といつも突っ込みたくなる。
人が人を「わかる」なんてことはないのである。
人が癒されるのは「何も言わずに側にいてくれる時」である。
子どもが不登校になった時、私は沈黙した。
離婚した時も沈黙した。
簡単に「わかったふり」をされるのが嫌だったからだ。
自分自身を傷と共に過ごし、自分自身を少し癒やしてからでないと
語れないのである。
そして、私の語ることに対して、偽善でない言葉をかけてくれたのは
いつも私を見守ってくれている友達と、同じ経験をした人たちだった。
離婚した当時、言葉が欲しくてメル友を探していたことがある。
男性がどんな言葉をかけてくれるだろうと思って、メールできる相手を求めた。
ところが、どの男性も似たり寄ったり。いい加減な慰めしか返ってこなかった。
そして気づいたのだ。私が求めているのは、自分を奮い立たせてくれる人だと。
慰めが欲しいわけじゃない。わかって欲しいわけでもない。
生きる勇気をもらえるようなエネルギーに溢れた人の近くに居たい。
そして、女性をかわいそうだとみなしたり、俺が偉そうなことを言えばいいと勘違いするような男性ほど、寂しくて、エネルギーがないのだということもわかった。
アダルトチルドレンという言葉が流行った時も間違った解釈が横行した。
親に傷つけられたかどうかを判断するのは、その親に育てられた子どもだけでいいのである。他人が客観的に判断するものではないのである。
母親としての大変さもまた、同じだ。大変かどうかを決めるのは、当事者だけである。
部外者が「大変かどうか」を決めつけることがもっとも失礼なことであり、その大変さを乗り越えた後の諸々の感情を語っていいのも当事者だけなのである。
「お母さんになれてよかったね」とか「不登校して偉かったよね」などと生半可な気分で言われて嬉しい人などいない。
人の痛みを語れるほどの経験を持ってる人って、いないんじゃない?神様ぐらいじゃない?
痛みというものは、素晴らしい個人的体験である。
それがあって初めて「人は人」「自分は自分」と気づくことができる。
「自分だけが痛いんだ」という孤独を知ることは、自立の第一歩ではないだろうか。
どんな感情もどんな体験も、共有することはできない。
同じことを見ても聞いても、それは個人の体験なのだ。
だから、自分の殻に閉じこもって、昔の体験を悲観的に語ったところで、誰にも理解されなくなるのだ。
痛みを想像して嘆くことはできるし、やりたければやればよい。
そこから何を生み出すのか、それが問題だと私は思うけど。
嘆いたところで誰も得しないよ。嬉しくないよ。想像で痛みを語ってどうするの?何がしたいの?勝手に思いやってるつもりなの?
本当に誰かを励まし、慰めたかったら、その人の元に駆け付けて、一緒に泣いてあげればいい。
「男の人は優しいよ」と教えてくれる人がいる。
たしかにそうかもしれない。男は、慰めてるつもりになるのがとても嬉しいから、優しさを振りまいて、その振りまいてるつもりを受け入れてくれる女性が好きだ。
でもね、たまにはそういう優しさを拒否してもいいんじゃないのって思うよ。
いる?それ必要?
本当に好きな人からの優しさや愛は必要だけど、そんなに好きでもない人からの、上から目線の優しさや慰めを、わざわざ受け入れてあげる必要なんてあるの?
それってDVを受け入れてる女性と同じ優しさじゃないのかなあ。
私は昔、モテる女性がうらやましかったけれど、今はそうでもない。必要のない「優しいでしょ、俺って」がめちゃくちゃ鬱陶しいから。かまってやれないし、私も忙しいしね。そんなんでモテたら、自分がしたいこともできなくなる。本当に愛し合える人と出会えなくなる。本当に必要なものしかいらないって決めたらいいと思う。
あれ?脱線した(笑)
どうでもいい男性の愚痴に付き合わされる羽目になるよ、優しさを全部受け入れてたら。
選ぶのは自分。痛みも優しさも、慰めも。だから、他人に決めさせたり、他人を入れたりしたら、人生がわかんなくなるよ。
私は、痛みを笑って空に返すだけ~~~(#^^#)
私は痛みを「聴く」だけだから。痛みを「わかる」ことはしない。痛みの評価をしないということ。ラベルもレベルもないからね。