風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

親とうまくいかなくてもちゃんと人とつながれる話

大豆田とわ子と3人の元夫を

途中から見始めたらあまりにも面白くて

今日最終回を迎えた。

 

どこから見ても気持ちのいい展開で

時々きれいにまとまりすぎじゃんと思うけど

こんなドラマ、これまでになかったんだよね。

 

もうわたしたちおなかいっぱいですって感じの

「恋人はひとりに絞るべき」「結婚できなきゃ幸せじゃない」

「トラウマがあるからひとりで生きる羽目になるんだ」的なものが

一掃されたというか。

 

そして、たったひとりのパートナーを見つける為だけに

生み出された恋愛哲学やテクニックは、

もはや通用しない。このドラマで駆逐された。

 

人が幸せに生きるために必要なのは

たったひとりのパートナーなんかではない。

自分軸でもない。仕事だけでもない。

幸せを誰かに決めてもらう必要なんてない。

 

私の心の中には、離婚してから出会った人たちの思い出がたくさんあり

今も会おうと思えば会える人や、会おうとしなければ一生会えないかもしれない人たちがいるんだけど

その人たちが私を支えていることは間違いない。

 

曖昧だけど、好きな人たちの存在を周りに置けるようになった私は

家族や親族でかちこちに固まっていた頃よりもずっと幸せだ。

 

ひとりで転んでひとりで起き上がることができる私は

助けたり助けられたりが上手になって

ますますひとりで起き上がれてしまうけど

それもまた、いい感じである。

 

恋も愛も人生と同じで千差万別で答えなどない。

答えが欲しい人ほど、誰かに承認されたくて

自分の恋を匂わせる投稿をしてしまったりするんだろうけど

どうでもいいんだよ、そんなこと。

 

もっと解放されたら面白いのにな、といつも思う。

小さな「成功」を求めて、自分がそうだと思いたいという檻の中にいて

大変だなあと思う。

 

昔から私は理屈っぽいと言われてきたけれど

周りを見回したら、ほとんどの人が理屈で生きていると知った。

「世間」からはみ出てるつもりで「宇宙」や「神様」の「常識」からはみ出ない人たちもいる。

 

強がるより弱がってみよう。

こんなに知ってる、わかってる、見えてる、って自慢それ

学歴社会の中で威張ってる人と同じ態度だよ。

 

あ、話がそれた。

 

いつものことだけど。

 

今年も紫陽花が満開だ。

去年の今頃は無職で病み始めてた(遠い目)。

そこから、びっくりする仕事に就いて

必死でがむしゃらに勉強して今ここにいる。

 

やりたいことをやればいいんだよ~の呪いが強烈に私を苦しめていて

常にチャレンジをすることで自分を燃やして生きる自分を忘れてた。

なんだっていいんだ、チャレンジすることは。

 

人を好きになることもそのひとつ。

 

人間だもの、人間らしく生きていこう。

鬱になったり病気になってもいい。

決まったパートナーいなくていい。

いちいち男の人に助けてもらえなくていい。

男女の在り方や、性生活に口出してくるような

「自称”恋愛名人”」に騙されちゃいけない。

自分だけの幸せを見つけよう。

 

ちらっと垣間見える「素敵なところ」に魅かれ続けることも才能だと思う今日この頃だ。

 

男女問わずね。

 

世界はあなたのためにある。

 

 

 

 

 

ゆらぎ

ゆったりとした気持ちで仕事に向かうと

苦手だった同僚が優しく思えた。

自分の余裕のなさは伝わるし

また、半年を経て私という人間が理解されてきたからだと思う。

 

しばらくモヤモヤイライラしていた。

その理由を早急に答えを出さずにいた。

 

私の中を見てみるとそれは「ゆらぎのない人」に対する苦手意識だった。

 

ゆらぎのない人が苦手なのは今に限ったことではない。

何かを信じ切っている人、依存している人、「これしかない」と思っている人。

特に宗教や自然派と言われる人たちに多く見られるこの「硬さ」は

教祖もびっくりしていることであろうと思う。

 

おそらくは発達障害のグレーゾーンに含まれるであろうその「硬さ」と「頑なさ」は

私の母親に見られたことが、最初の出会いであり、その後、そういう人を呼び寄せてしまうきっかけにもなった。おそらく、私自身がそういう人たちの中に母親を見て、「なんとかしたい」と思ってしまうことが原因だと思う。

母親を救えなかった、あるいは、そういう母親から愛されなかった理由を知りたい気持ちがそうさせているのかもしれない。

 

言ってることは威勢がいいし、正しそうに思えるし、言い切ってしまうから頼ってくる人もいたりする。

だけど、その人と「対話しよう」とは思えない。

会話にならなくて、一方的に「聞くだけ」「聞かされるだけ」になってしまう。

それがとてもしんどい。

 

私の話すこともすべて切り取られ、意味が分解され、その人の主張に取り込まれるだけで、お互いに何かを創り出すことができない。

 

そしてその人の行動と発言は大きくかけ離れているのだが、その矛盾に気づかない。

 

さて。

私には大切な友達がいる。

不登校の相談事業をやろうと思った時に一緒にやってくれた人たちだ。

友達から学んだことはたくさんあって

それは緩やかであることや、優しくあることや、弱く見えて強いことがあるってことだった。

 

母親のような、お姫様体質で弱みを見せない強がりの人たちと知り合ってしまい傷ついている私を癒してくれたのは

不登校の相談をやっていた時に知り合った人たちだったのは

「守られた困らない人生」ではない人生を送っている者同士の心の交流があったからだと思っている。

病人や障害を持つ人と共に暮らしている人の静かな覚悟や勇気を見ると

とても励まされるし謙虚になれる。

 

ゆらいで悩んでいる人の強さが私は好きだ。

 

弱さは宝だ。ゆらぎも宝だ。

 

赤ちゃんのファーストコンタクトが母親で、その母親と決定的に相性が合わなければ

一生その疑問と向き合って人間関係の困難さを抱えるのではないかと思う。

今やっと、母親とわかりあえなかったことや、母親の頑なさをほどけなかったのは

私の責任ではないし、本当に相性が合わなかっただけのことで、自分をそんなに責める必要はなかったなあということだけである。

 

ゆらぎのない母親に理解してもらおうとした努力は、人生後半に実を結ぶことになった。

結局そういう人たちに私を理解させることはできないということがわかって

私がそういう人たちを「理解して対処する」技術を身に着けたことで

私の対人関係は大変スムーズになった。

そしてついに、母親に似た人に対して、努力したり気遣ってあげたりする必要もなくなったことがわかった。

 

今回、久しぶりに「頑なさ」に出会って、うん!もういらない!って思えたことが収穫であったと思う。

親というのは、このように子どもに影響を与えてしまうものであるが

ちゃんと自己研さんしていけば、親からの影響を越えて行けると信じている。

 

アダルトチルドレンという言葉に出会ってもう何十年になるだろうか。

死ぬまで色々思うんだろうけど、もうその幻想に困らされることは減っていくと思う。

 

ゆらぎと共に歩くことをやめないでほしい。

 

 

マウントに左右されない人生を

GWも今日で終わりです。

きっちり休んで、会いたい人に会って過ごしました。

 

記事を一つアップしたのですが消しました。

なんとなく、違和感。

ごめんなさい。

 

さて。

世の中、成功哲学で溢れております。

その前は、別の流行がありました。

若い人の中には左右されてしまう人もいるでしょうね。

私もそうでした。

いったい何が正解なのか、ふらふらと彷徨っていた時期がありました。

 

その時その時で流行する言葉を使って

人と人が比べ合う。

自分のほうが幸せだ、うまくいってる、正しいということを証明したいがために

言葉を操っている感じがとても苦手で

疲れ果ててしまった時。

なんだか「もういいや、全部放り投げたい」と思って

自分のくだらなさもダメな部分も人から否定されてきた部分も受け入れることにしました。誰が何をマウンティングしてきても「聞かない」と決めて。

 

で、一番発信したかった場所で、自分のことやあれこれを書いたところ

思いがけず反応があり、

苦手だった男性から褒められることが増えて

恋愛への苦手意識が消えて今ではどうでもよくなりました。

 

私が尊敬しているフェミニズムの方々は、男性経験が豊富です。

男友達もいっぱいいらっしゃいます。

だからこそ、視野が広くて男性にも辛辣で、かつ愛があるのではないかなと思います。

 

「わたしはこんなに男性と仲良くできるの」「いつも愛されちゃうの」「男性が私をかまってくれるの」というのを必死で言わなきゃいけないような生活を送る必要性など

どこにもないわけです。

 

人柄や生き方を見ていれば、その人に魅了されて男性も女性も寄っていくだろうことはわかります。

「わたしはこんな風に男性から接してもらってて~」なんて「誰にそれを認めてもらいたいのか?」になります。

 

ひとりでいようがふたりでいようが

家族がいようがいまいが

自分が「人としてこれでいい」と思っていればいいわけで

私の場合「普通の人が思い描くハッピーな暮らし」と「自分が満足する人との出会いと接し方」がまったく違ったことで、混乱を招いていました。

 

子育てのやり方にしても、パートナーとの関係性にしても

「私の生き方」として納得できていれば、誰に自慢することも、褒めてもらうことも必要ないんだなあっていうのが最近の気づきです。

 

そして、成功例をやってこなかったからこそ

今悩んでいる人の話が聴けるということも。

 

「わたしはこんなに正しい育児をしています」「立派なパートナーシップを築いています」と言う人に、誰が相談しますか?

 

悩んで迷ってぶつかってきた数だけ、わかる気持ちがあると思っています。

 

そのことに気づいたのは、今の仕事を始めてからです。

すべての経験が無駄ではなかったと。

 

自分の経験は誰にも奪われないし、なくなったりしないし

唯一無二のものだから、比べられても仕方ないし。

揺るぎない自分の宝物として輝いているものです。

 

目の前に何度も立ちはだかってきた壁があるし

何度も味わった悔しさや悲しみもあるけれど

それは決して否定したり、反省するものではなくて

ただそこに「自分らしさがある」のだと

教えてくれるものでした。

 

人は、そのままで「存在するだけ」です。

そこに意味づけをするのは勝手なことで

どうせなら誰かと一緒に「存在を支え合って」生きていこうぜってことだし

親子じゃなくたって全然オッケーじゃん?みたいな。

 

愛されたとか愛されなかったとか

愛を受け取れないとか受け取れるからどうとか

まったく関係なく、人は生きていて

そして死んでいくんじゃないだろうか。

 

自分自身の中に育んだものだけ持って。

過激な意見かもしれないなあ

洗濯日和の日曜日。

試験勉強に励んでおります。

 

日本における女性の扱いの酷さを

感じる人と感じない人がいて

女性であっても理解できない人もいる。

 

その中で、私はたぶん、ちょっと過激な方に入るのかもしれません。

 

男の浮気や不倫が当たり前に許容されている現実について。

女性のほうにばかり批判と非難が集中することもまた

女性に対する不当なことだと私はいつも思っています。

 

不倫や浮気をすればすぐ離婚となれば

男だって少しは考える。

だけど「許してもらえる」とどこかでわかっているから

やるんですよね。

女性が離婚しにくい現実もわかるけれど

我慢し過ぎっていうか、「私だけがこの男の味方だ」というのだけがプライドとしてあるのか、本当に誠実な男と暮らす自分が思い描けないのか、お金のためなのか何なのかわからないけれど

とにかく「過ぎるのを待つ」(コロナもそう考えてるみたいだけど(笑))ことが

美徳であるかのように信じている女性があまりに多くて唖然とするんです。

 

離婚したくないから浮気を見過ごすということは

つまるところ、浮気相手に対する、あなたの夫の不誠実さを認めるということです。

自分は経済的に守られてるからいいんだ、相手を悪者にすれば安全だ、とか思ってるから

男は不倫や浮気によって、泣かせる女性をどんどん作り

不誠実さを世の中に広げている。

それを支えているのが妻です。

 

どこぞの女性を泣かせてでも

夫が機嫌よく居てくれたらよくて

円満な老後を迎えれば勝ち組なわたし!とか思ってることの

エゴの強さったらないなあと思ったりしてます。

 

妻にとっても「遊べる女」は必要悪だと思ってるんじゃないですか。

 

じゃなきゃ、自分にとばっちりが来ますものね。

 

夫は留守でいてくれればいい、という言葉に象徴されるように

夫婦は向き合わず、外で遊んでくれる便利な女がいれば助かるわ~みたいな。

 

そうやって、女性が女性に対しても差別する構造になってるなあと思うわけです。

 

向き合うばかりがいいとは思わないけれど

外で遊ぶことを許すつもりなら、

相手の女性に対しても、きちんとお礼するくらいの気持ちでいればいいのに。

 

何怒ってるんだろう。

 

ひどいのは男なのにねえ。

 

私には、それこそ嫌いな女性もいて

わざわざ妻や彼女に対してしょうもないことを言ってくるようなタイプなのはそもそもダメなのですが

それを言わせてる夫に対して、私はきちんと「嫌だから」と言ってました。

 

ずるずると男を甘やかせることが「いいこと」だと信じて疑わない女がいる限り

この日本で男女平等は難しい。

だけど、やっと声を上げる女性たちも増えてきたのは喜ばしいことです。

 

自分の家族を守るためにだか何だか知らんけど

夫が遊ぶのに目を瞑り、気持ちが収まらなくなったら男ではなく女に敵意を向けるってのは、ほんと、どうかしてるんじゃないのかと昔から思っています。

 

女性が離婚できる世の中に。

そして、誰もが守られる世の中に。

男に守られなくても生きられる世の中に。

 

男の安泰のために犠牲になる女が減りますように。

 

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生活と理想

また雨の日曜日。

かなり遅く起きだしてダラダラ過ごしているうちに夕方になる。

自分自身を立て直すための大事な休憩なのに

何もできていないことに罪悪感を持ちそうになる。

やばいやばいとその思考を変化させる。

 

若くはない身体で遠方まで夜に出かけることが続くと

さすがに週末がやばいのであるが

家が片付かないことにも落ち着かないでいる。

 

やっと二度目のうたた寝から起きだしてコーヒーを入れた。

 

さて。

 

この世界ではようやく男性の問題発言や問題CMに声をあげる女性が増えて

ほっとしている。

思えば30年前、私はひとりである組織の中で文句を言っていた。

 

それは、打ち上げに「生のパイナップルを使いたい」という男性陣に対してのことであった。

 

生のパイナップル=切り分けが必要なおみやげ、である。

今の私ならそう言えるけど、学生の私には言葉が見つからなかった。

誰もが楽しむはずの打ち上げに、どうして女性の手を煩わせる「生のパイナップル」を注文するのか意味が分からなかった。

そして、注文するのは女性なのである。

男は食べるだけだ。

 

今でも「パイナップル事件」とあの頃の同期達は揶揄することがあって

本当に不快でしかないのだけど

私の真意は女性にも伝わらなかった。

 

あれから年月が経ち、職場のお茶くみはなくなり、コロナのせいもあって

個別のペットボトルのほうがおもてなしの時代になった。

女性だけの今の職場では、そもそも「女性だから」何かをさせられるということはない。

育児や介護をしながらバリバリと営業で稼いでくる女性たちを見ていると

いちいち誰かの手を煩わせなきゃ仕事できない男って何だろうなと思ったりする。

 

女性の才能ある人たちが、男の才能のために時間を奪われ

その才能を発揮する時間とチャンスをなくしていることにも気づかない世界。

 

サポートが必要なのは、男も女も同じなのにな。

 

わたしは、たまに掃除にお金を遣うし、お弁当なんて作ってもらえないから

外食してしまう。

主婦がいる男の、なんてイージーなことだろうと思う。

 

専業主婦にならざるを得なかった時代。

手作りが素晴らしいとか、無農薬野菜がいいとか

そういう界隈に出入りしていたことがあるけれど

それこそが特権であるってことがわからないようだった。

無農薬野菜を買ったらもれなく「じゃぶじゃぶ水で洗わなきゃならない」が付いてくる。水道代を気にせずにいられる田舎の人か、金持ちの都会の人でしか買えない。

水道代を気にせずにいられる田舎の人は、そもそも家賃など払わない生活だろうし。

 

たしかに健康はお金で買えないけれど

いやいや、みなさん、お金で健康を買ってるんじゃないでしょうかと

思わざるを得なかった。

 

あの時感じた矛盾は、じわじわと広がっている。

 

貧しさが無農薬野菜を買えないことと直結しているのであれば

本当は、ロハスの人たちは、貧しさへのアプローチをするほうが有効ではなかっただろうか。

 

農業はお金がかかるんです、大変なんです→だから農協があんなんで、農薬を使って値段を下げたんじゃないの?ってことで。

結局は、お金の流れが農業をおかしくしたのであれば

無農薬野菜を受け入れない人たちの責任にして、善意のお金のない人たちに無農薬野菜を売りつけることで解決するわけはないだろうと思ったりしました。

 

私はいつも「そこ」に立ち戻ってしまう。

 

今の私は、もやもやを抱えている途中で

でもそれがとても大切な時間ではないかと思っています。

これまでの人生で得たものと、今の時代をどうつなげばいいのかを

模索しているところです。

 

今できることを精いっぱいやりたいけど

体力も時間も足りない気がしてる。

まずは自分の生活からです。

 

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雨です

家にいるのが苦にならない雨。

 

最近、体調が良かろうが悪かろうが安定している。

考えてみると、思春期からホルモンが及ぼす影響に振り回され続けてきた。

出産して産後鬱も経験して、すったもんだを繰り返して

自分が安定する人間だとも思えなかった。

 

自分が男だったらと幼い頃から夢見たけれど

それは安定した精神を求めていたからだと思う。

 

家族のことでいっぱいいっぱいだった時もストレス満載で

それこそ学校の役員を(子どもが不登校にも関わらず)することになり

半べそ書きながらやってたこともあったのに

今では、地域の役員すら平気でできる気がしている。

仕事で土日出勤もあり得るのに、だ。

 

人は変われる、というのではなく

環境が人を変えるのだと私は思っている。

そこには体力などの問題も含まれている。

育ってきた環境を変えるか変えないか。

それがその人となりを変えるか変えないかなのかもしれない。

お釈迦様が家を飛び出して悟りを開いたように、だ。

 

同じ人を周りに配置し続けると、自分への評価も固定し続ける。

自分自身への思い込みも強化される。

親子が離れたほうがいいのも、その辺だと私は思う。

子どもへの評価が固定すると、子ども自身もまた、固まってしまうからだ。

 

可能性を広げるのであれば、住処を変えるのは有効であると私は思う。

 

しかし、自分への評価を固定したい人たちは

安定した家と集団生活を望み、他者が変化するのを恐れる。

でもそれが、人間という集団にとって有利に働いてきたのであれば

そうなんだろうけれど

排除やいじめを生んでしまうので、私は好きではない。

 

物事は変化する、と、常に宗教的な人物が言うのは

人間自身が変化するものであるにも関わらず

変化を許さないとする思考に走りがちだからではないだろうか。

 

先日、カウンセラーの資格があって占いしてるらしい人から

私生活をいちいち指示されて鬱陶しいという案件を耳にして

安易なカウンセラー資格の罪深さにくらくらしてしまう。

私が何かを言える立場ではないのだけれど

他人の感情や生活に口出すことを善と思ってる人が

占いやらカウンセリング界隈に来るのを防げないもんだろうかと

やっぱり思ってしまう。

 

自分がいいと思うものを相手に勧める時には

信頼関係やユーモアが必須だと思うんだけど

なぜか「これやめなさい」などと禁止事項を押し付けてくることが多いみたいで

けどその前にまず、自分自身が相手にその話をして信じてもらえる人間にならなきゃ

まったく意味をなさないと思っていて

その前提を欠いて(カウンセラーと言えば信じてもらえると思ってるなど)しまっているところがもう、痛いとしか言いようがない。

 

決めつけはカウンセラーや占い師の仕事ではないと思うんだけどどうなの。

 

そしてそれはやがて支配と依存を生むので、結局依存する人を増やしているだけ(つまり良くするどころか悪化させてるだけ)になり・・・え??ってなりません?

 

言い切り系の人たちを信じてしまう問題もあるけど

言い切りを良しとしているメディアの問題でもあるのかもしれない。

 

結局、言い切り系の人たちの話って、全部誰かの受け売りでしかなくて

自立しているわけでもないし、自分で考えているわけでもない。

だから、言い切ってしまえる(自分の責任じゃないから)のではないか。

 

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では、自分の試験勉強に戻ります。

夢も希望も自分のものだから

気温は低くないのに、風が冷たくて空気がひんやり。

いつまでも冬のコートが手放せない日々です。

 

あの震災から10年が経ったということで

テレビでは特番があったとかどうとか。

私はテレビをまったく見ないのでわからないのですが

職場でも震災の振り返り番組が放映されました。

 

被災していない私でも、映像を見るだけであの時のショックが思い出されて

こっそりと涙を拭きました。

あの日から私に起きた様々な変化を思い出すと

10年の重みを感じずにはいられません。

市民団体立ち上げて、小さなちらしを作ったこともありました。

食生活も変化して、それから家族関係もどんどん変わって。

私自身も大阪北摂地震で被災しました。

 

激動の日々を歩いてきたことで、好む好まざるにかかわらず

自分自身が変わらざるを得なかったのは事実です。

 

専業主婦のままゆっくりと魂を病んでフェイドアウトする未来を置いて

まったく違う人生を歩むことになったのは予想外でした。

 

さて。

 

今の楽しみは外を歩いている時に花を見つけて写真を撮ること。

営業で歩いていても、景色を見る余裕だけは持ちたいと思って

っていうか、しんどい時ほど自然から癒される日々。

 

先日も、少し落ち込んでいる時に、道端のお地蔵さんを見つけました。

その脇に紫の小さな花がいっぱい咲いていたので

思わず手をあわせて写真を撮らせてもらいました。

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少し暖かい日には桜も

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昔から同じことを言ってるのですが

誰しも「職業」にこだわりすぎだと思うんです。

好きなことを仕事にすることが幸せであると思い込まされてる。

 

違いますよね。

自分のやりたいことを今の暮らしと仕事の中でやるのが幸せです。

 

相談に乗ることは、カウンセラーにならなくても占い師にならなくてもできます。

どんな仕事をしていても悩んでいる人はいるので

職場で相談に乗れる人になればいい。

家族がいれば家族の悩みを受け止める人になればいい。

 

人を笑わせたいなら、芸人にならなくたって、出会う人みんなを笑わせればいい。

 

育てることが好きなら、教師でも園芸家でも管理職でも何をしてても「育てる」ことです。

 

「仕事になること」だけが「仕事」ではありません。

 

どこにいても、何の仕事をしても「してしまうこと」が「自分のやりたいこと」であって、職業を限定することが「やりたいことをやる」ことではないと思っています。

だって、その仕事をしてても「この人、向いてないのにやってるんじゃないかな」と思うことは多々あります。好きだと思い込んでいるだけで。

 

自分自身がこの世界でどういう能力を発揮して生きていくのが幸せなのかがわかれば

職業や今いる場所は、さほど問題にはならないはずで

どこにいても何をしていても「それ」をするしかなくなるのだから

それが「自分がブレない」ということになるんだと思います。

 

職業にしなきゃと思うからしんどいんです。

どこにいても私はこれをやっていくんだ、というものが見つかれば

「こうならなければ」という呪縛は解ける。

 

夢や希望、といったようなフレーズに踊らされることなく

夢や希望は他人に見せるものではないので、

ただ一歩ずつ自分の道を歩いて生きましょう。

 

他人に夢や希望を被せて一喜一憂するよりも

自分自身の夢や希望を持ち続けてる方がずっといいし

食べていくための仕事がどうであれ、

自分の人生を生きていくことが何よりだと思います。

 

そして、好きなことは多いほうがいいかな(#^^#)

たくさんの逃げ道を用意しておけば

それだけ生きるのが楽になりますよ。

 

今がどうであれ、大丈夫。