風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

心の旅ってこ~いうこと?

唐突ですが

わたしは、親から目いっぱい期待をかけられて

そのせいで兄弟から僻まれ妬まれ

背伸びしまくって頑張った結果

親からあっさり見捨てられた傷を持っています。

 

でもそれを、たくさんの寂しい人たちが癒してくれました。

 

わたしは、たくさんの寂しい人たちに出会いました。

気が付いていなかったけど、どうやら寂しさに出会うたびに出ていたみたいです。

 

誰もが癒されないまま、傷ついたまま、生きていました。

ああ、これでいいんだなと思えたんですよね。

 

「幸せにならなきゃ」「傷を癒さなきゃ」「愛を受け入れる人にならなきゃ」みたいなのがずっとありました。

家族は幸せになるべき、夫婦は別れてはいけない、別れても友達になれる関係が素晴らしい、等々

もうしんどいよ、お腹いっぱいだよって思ってたんです。

 

世の中、傷だらけな人たちいっぱいですよ。

 

癒された~いって叫びながら、満たされずにいる人たちの声をたくさん聴きました。

 

で、思ったんです。

どうしてみんなそんなに自分の人生にパーフェクトを求めてるんだろうって。

そして、求めることがその人を生かしてるのかもしれないって。

 

世間の基準から見れば、すっかりはみ出てしまっている人たちも

「この世の中で自分を死なせないために」生きてる。

 

それを善とか悪とか、神とか仏とか悪魔とか、そんなもんで

割り切ってわかったようなことを言える人なんて誰もいないと思うようになりました。

 

「車に乗らないから交通事故起こしません」というのと同じで

運転したこともないのに、事故を起こさない自分をどれだけ誇ったって

それは当たり前で。

 

臆病なまま生きていれば、嫌なことも不幸なことも起きなくて

人のことが愚かに見えるのだと思うけど

井の中の蛙状態であることもまた、自覚したほうがいいかもしれないです。

 

わたしはどうしたって、誰かの心に触れて生きていくみたいだし

自分が傷つくことも分かった上で、少しの時間でも心を通わせあえたらと思ってる。

それが私の幸せなのかなあ。

 

少しでも寂しい人が、この時間だけでも笑えますように。

優しい気持ちになれますように。

楽しい時間を一緒に過ごせますように。

 

祈りに似た思い。

 

私もそうやって一緒にいて癒されて別れるんだな。

 

私自身が風や川のように流れてるのかもしれない。

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集団主義がゲスな理由

試験が終わったので

ブログモードです。

 

なかなかおもしろいことに気づいたので書かずにいられない。

 

私は、集団や家族主義といったものが苦手なのですが

「個」で生きられないのが真実だとしてよ?

でも、集団主義も家族主義も

「私と同じ集団、同じ家族”しか”助けませんのでよろしく」ってことなのですよ。

 

つまり、一人で生きられないから、「誰かと仲よくしてなきゃだめよ」と言ってる。

 

人間全体で、隣の人とも助け合う(仲良くなくても)というところに行かないのがわたしはとにかく嫌いなのです。

 

だって、ひとりじゃ生きていけないくらい弱いのが人間だとしたら。

どんな人間も「みんなで助ける」方向に行くもんじゃないの?

どうして「同じ集団じゃなきゃだめ」「家族じゃなきゃだめ」なの?

 

助けられる範囲があるとしても。

それを拡大していくために、人類は発展し、遠い国の人ともつながれるようになったわけです。

 

それなのに、「隣は違う家族だから助けたくない」「助ける義務はない」「あの子は私の子どもではない(産んだけど)」「あの人は私の配偶者ではない(セックスはしたけど)」ってことになって

トラブルが発生するんですよね。

 

パートナー主義の人、愛する人がどうこうって言ってる人だって

結局は「人類愛」には辿り着かない。

「私に洗脳される人じゃなきゃ助けてあげない」「依存しない人じゃないと受け入れない」って言ってるじゃないですか?

 

自分自身の「小さな愛」を自覚して、「人類を救うつもりなんてありません」と公言してくれてたらまだしも。「人類のために」「みんなの幸せがわたしの幸せ」と言っておきながら、自分が救えるのはこの範囲です~~~って笑える。

 

好きな人しか救わないんだよ、人は。←これ、はっきり言ったほうがいいよ。

 

もし、全体のことを考えるなら、それはやっぱり政治というか、「仕組みを変えていく」ことに目が向くのが自然だと私は思ってる。

 

心が~心理学が~波動が~って言ってる人は

たいてい自分の好きな人にしかアプローチできないし

組織を嫌いながらブラック組織作っちゃうし

つまり、自分が何をしていて、何を見ているかに自覚がないのが、ね。

 

相続で揉めるのも、不倫が叩かれるのも

全部「家族はここからここまでです」「あなたは入れたくありません」「救えるのは家族だけで、それ以外はどうでもいいです」

という、自分が家族というアメーバに増殖して同一化するからであって

もしその家族の一員が何かをしでかしたり、アメーバとして同一化できなかったらとたんに「あなたは異生物ですね!」とはじかれる。

 

どこが「人類愛」だよ(笑)

 

家族主義にとらわれている人が、いったいどうやって日本全体の幸せを願えるのか私にはまったくわかりません。

神話も家族主義にどっぷり浸かってるよね~。

 

心の中に敵がいるから争うんだ!と声高に叫んでいる人がいるけれど

目に見える形で「家族」という形で、敵を作ってるのはわたしたちです。

家族がまとまって村になり、村がまとまって街になってるんだから。

 

ニコイチで、家族単位で、この世界に立ち向かう人はそりゃ心強いし、頼もしいし、ひとりで頑張らなくていいし、ね。

でも、そううまいこといかない人間だっているわけですけど。

 

その「うまいこといかない」をカバーするのが知性であり、仕組みを考える人であり、「うまいこといかない人をコントロールして変えてやろう」(←これが心理学やら波動説を唱えてる人たち)とするのは違うんじゃないかと私は思います。

 

どんなふうに生きていても「生きていける社会」を私はずっと心に描いています。

わがままを貫く

めっちゃいい天気ですやん!

ドライブ行きたいわ~

けど、今日は洗濯が優先です(*´ω`*)

 

独り身になってつくづく思うのは

私の身体は集団に合わせるのに向いていないということ。

昔からそうなんだけど

準備するのに時間がかかるのです。

 

賢いからなんでもちゃっちゃとできるやろ、と思われてしまうので

余計に無理をして、必死で頭をフル回転させて生きてました。

どこをどう削れば早くなるかとか、みんなに合わせられるかとか

そんなことばっかり。

 

今では、朝も自分のペースで準備して

パンプスはしんどいから、靴を持って出て駅で履き替えて

走らない、慌てないを原則にします。

コートを着ることひとつにしても、私は人より時間がかかる。

そういう自分をまったく大切にしていなかったなと思うのです。

 

時間がかかるから着ないとか、慌てて雑に着るとか、気に入らない他のアウターを選ぶとか、とにかく「他人の時間に合わせること」を最優先していた気がします。

 

今の職場はとても学校的な部分があって

以前の私なら到底認められないこともあったりするのですが

一生これが続くわけじゃないことも知っているし

今が特殊なだけだということもわかっているので

やり過ごすことは簡単です。

 

「へ~今時こういう考えでやってるんだ~」「時代がそろそろずれてきてるんじゃあ・・・」と心の中で突っ込みながらもまた、楽しいものです(年の功だね)。

 

家族にしても学校にしても

とかく集団ってやつは、

個を潰してくるのが得意です。

 

そこをまっすぐに信じて大人になってもそれをやっちゃう人を見ると

今では痛々しいとすら思えます。

 

人権をまったく大切にしていない自分をすべて肯定した上で

「私のやってることは美しい」とすら思ってる。

ロボットみたいに見えちゃう。

 

でもそれは、羨ましいことでも何でもなくて

私の中にあるたくさんの経験と心にあるたくさんの傷が

宝物のように輝いているのがわかるから

そしてそれは、誰にも売れないしあげられないし味わってもらえないもので

私だけのモノなんだなあと思うと

「まっすぐに育たなくてよかった」としみじみ思います。

 

30代から40代にかけて

「この世の正しいとはなんだろう」がわからずに悶々としていました。

「これが正しい」「こういう生き方が美しい」・・・色んな人が色んな立ち位置で言ってます。それを全部試そうとしました。

だけど、他人の「美しさ」を取り込もうとするたびに

わたしは失敗し、傷つき、凹み、世の中を恨みました。

 

感謝する人がいいんだ、集団に合わせられる人がいいんだ、家族主義で生きるのが幸せだ、お金があることが正義だ、愛とお金が降ってくる人生が正解だ・・・・・・・ありとあらゆる価値を主張する人たちでお腹いっぱいになるどころか下痢してしまう始末。

 

どれもこれも、他人の価値観でした。

 

私の正解は私の中にしかなかったのです。

 

否定も肯定もなくて、ただ「そういう価値観がある」だけのこと。

乗っかる必要もないし、扇動されて躁状態になって踊らされることもないです。

 

若くてもそれがわかってる人もいれば、年配の人がテレビの価値観を追いかけていることもある。

 

相変わらず「夫を過去の虐待の傷から救えるわたし」にうっとりしている女がいて

一方で「男に癒してもらう!」と決意して自分を貫く女もいる。

日本にいる男女は誰もが傷だらけで、誰もが癒されたがっていて

「わたし、癒してあげる女」になりたい女は、実はそうやって自己肯定感をあげるしかできなくて、たぶん一人ぼっちになれない人だろうし

「私の弱さが男の力を発揮させるんだ」と思って弱さ全開で男に頼る女もまた、ひとりになるのが怖いだろうなと思います。

 

で、その「どっちかにならなきゃ幸せになれないよ」と脅してくる恋愛、結婚アドバイザーは意外と多いですよね。集団(二人家族も含めて)は、「ひとりぼっちはいけないこと、ひとりは嫌だと思う人間」を作るためにあるわけだから、当然だけど。

 

その人類が必死で確立してきた価値観と自分が合わない時の辛さは

なかなかのものがあるけれど

そこを通り抜けて自分自身を見出した時に「世界が変わる」のかもしれません。

 

ま、頑張って生きていこうな!

 

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クリスマスシーズンか?!!!

御堂筋が美しい季節になりました。

ハロウィンが終わったと思ったら

街は急にクリスマスですね。

 

寒いのは嫌いだけど

クリスマスは好き。

 

お久しぶりです。

 

新しい環境の二ヶ月目。

頭脳をフル回転しながらテストを受けたりしていました。

 

他人の評価を気にしていた自分がどこかに行ってしまいました。

今の会社は「評価する気満々」ですが

それすら楽しんでしまえる。

 

芸術家にならなくても

自分をとことん表現して生きることができるんだなあと思います。

評価される場所で自分を演出することぐらい

なんてことないんですよね。

それよりも、やっかいなのは

「成績なんかで評価しない」「人間性がすべて」とか言ってる人に限って

自分の主観、好き嫌いだけで他人を見てることで

それに気づかないことでしょうか。

自分の評価基準を疑わない人って怖いですよね~。

 

私は知性と顔と声を評価するので、きっと偏ってると思うけど

それが私の人の選び方だとわかっていて、

だけどそれを公の場で行使しないし、正しいとも思わない。

趣味嗜好で人を選んでますってはっきり言えることが大事かなと思います。

自分の趣味嗜好を公式化して、誰にでも当てはまるかのように錯覚させるのは好きじゃないなあ。

 

ということで。

 

好きな人に囲まれて生きていきたいものです。

 

エプソムソルトのお風呂に入ると湯冷めしない!

 

ではまた!

 

紅葉見に行きたいよ。京都はどう?

 

 

 

 

自分を信じてね

今日のお休みは私にとって貴重だった。

先月はまったく祝日がなかったし

月曜日じゃなくて火曜日ってのがまた。

 

新しいステージに来てるのか

私への周りの評価が変わってきた。

じゃなくて、私の周りにいる人が今までとは違う。

 

じゃなくて、私が今までと違う場所にいる。

 

つまり、人は、場所を変えれば評価も変わるってことです。

 

実の家族を離れて、私をけなす人が減った。

結婚してからはいい気分で過ごせるようになったけど

今度は周囲から責められることが増えた。

子育てを終え、結婚を終え、一人になったら

責められることが本当に減ったのだった。

 

声が若い、文章が色っぽい、話しやすい、、、

今の私はそういう人らしい。

 

これが自分だと信じていたものがガラガラと崩れ落ちる。

そして、新しい自分が(というか、元からあって見えなかった自分が)出てくる。

 

相変わらず凹みやすいし、PMSの時は孤独感を強めてしまう。

だけどそれはそれ。昔の私はそこにいない。

 

「人は変われる」とよく言われる。

それは違うんじゃないかな。

自分に合った環境に行くことをお勧めする。

わたしは、自分自身を抑圧してくる環境にいた。

それが普通だったし、普通だと思っていたし、世界は私を抑圧するものだった。

だから、そういう場所に好んで出向いていった。

 

だけど、抑圧しないことを目指したら、わたしを抑圧しない人たちばかりが

集まってくるようになった。

それは「自分が変わった」んじゃない。周囲の環境を変えたのだ。

 

確かに、違う環境に飛び込む勇気は必要だったかもしれない。

ここは自分の居場所じゃないとわかるようになったからかもしれない。

それは大事なことだ。

無理をして自分を変えようとしても変われなくて当たり前。それをやめて「あなたはこんな人だよね」と固定する人たちから離れただけだった。

 

場所を変えれば違った部分を引き出してくれる人に出会える。

 

そして誰に何を言われても、自分自身を決して卑下しないコト。

プライド高いとか生意気とか謝れない人だとか、わたし散々言われたけど、私より話しやすい人を他に知らない(笑)

私のことが苦手で嫌いだなあと思う人に対して、優しくしないだけだった。

 

マイナス評価はあてにならないし、本当の迷惑な人や意地悪な人は、他者からはいい評価をもらおうと画策するし、いい評価しか信じてない(笑)

 

だから、自分を好きに表現すればいいです。わかってくれる人は必ずいます。

 

20年前の私に言ってあげたい。

あなたはとても素敵な女性だよって。

 

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過渡期になるのかそれとも

いいお天気です。

洗濯したら気持ちがいい~~~

勉強の合間に、「そろそろ休憩しよう、ブログ書こう」って思う。

休憩かよ!

 

自営の人は自営の中にしかいないし

企業で働いている人はその中しか知らない。

そういうことをつくづく感じる今日この頃です。

 

公務員→専業主婦→派遣→非正規公務員→正社員なるか!

という経歴のわたしは、就活時代も含めて、けっこうな種類の場所を見てきたつもりです。

独身さん、専業主婦、共働き、離婚した人、その他いろいろ。

男性も独身から離婚して子供を引き取っている人まで。

 

人それぞれの生き方があるけれど

私は、ひとつの価値観しか知らない生き方より

「誰もが助かるってどういうこと?」を追求してきた人生で

だからこそ、多様な人々を知る必要がありました。

 

今もびっくりするんだけど

精神疾患が若い人に多いって知らなかった」と言うアラフォー女性とか。

子どももいるんですよ?いい会社で長年働いてこられた人のようですが

一定レベルの人に囲まれる人生ってそういうことなんだな~みたいな。

 

自分も精神的な危機を経験せず、子どもも何事もなく(周りでは色々あっただろうけど関心を持たなかったのか)・・・そのまま歳を重ねるってどういう感じなんだろうな。

 

どんな人ともそれなりに会話ができる今。

自分の経験値に感謝しています。

どんなことをしても生き延びてやるという私のエゴは

とっても頑張ってくれました。

 

たしかに、同じ集団の中では「やさしさ」や「愛」で何とかなるかもしれないケド

命の危機が迫った時に役に立つのは、怒りやエゴのパワーだったりします。

誰に何を言われようが自分は生き延びるんだ、という強い意志。

それは、なりふり構ってられないということかもしれないです。

 

さて。

 

コロナで世の中が変わりつつある気がしてるけれど

どっちに転ぶかなあ。

日本は閉じこもる傾向にあるから。

 

ネット社会だなんだって言っても、現実は人に会わなければ生きられないわけで。

人に会う=社会の中に閉じこもっていくのか

それとも違う道を行くのか。

社会とはこういうものだ、こういう人生が当たり前で幸せなんだっていう型を「貫きたい人、貫きたい会社」と「変えていこうとする人と会社」によって変わるだろうなと思っています。

 

勘違いされてるのが「学歴社会や頭がいい人だけが仕切るのは古い」という考え方だなと思っていて

頭が良かろうが悪かろうが、権力を持てばいい(頭脳じゃなくて肉体や威圧感なども含まれる)という考え方自体が古いんであって

それを「学歴」や「頭の良さ」が「よくないこと」と思わされてきたことで

結局、ずるしてお金儲ける人や、騙す人や、勉強してなくて騙そうと思わずに騙してる人が、「わたしは勉強できないケドお金持ちで幸せになった」みたいなことを言いだしてるのが、世紀末っぽいなと思うわけです。

 

誰もが幸せに暮らせる社会を組み立てるためには、それなりの頭脳も必要です。

そりゃ、自分だけがイケイケで突っ走って倒れたら幸せだと思っているなら

勉強なんていらないかもしれないけど、どうなのそれ?

 

詭弁ばかりの弁護士や、自分をごまかすことだけに長けた政治家を生んだのは

頭がいい人は嫌いだけど、同じような権力志向をもって自分を代弁してくれる人の言うことなら無条件に従っちゃうっていう、「正しいことや理屈を言う人は嫌いだけど、自分では考えたくない部分を代わりにしてくれる頭のいい人は好き」みたいな身勝手な「賢い人は嫌な人」と思ってる人たちの意識じゃないのかなあって私は思ってる。

 

ヤンキーを取りまとめてくれる人だけはOKみたいなね!

 

なんや言うて、日本はやくざ社会やなあとつくづく思うんですよ。

やくざに取り入れる人が勝ち組みたいなところある。

それはもう、頭脳戦だったり肉体戦だったりコミュ戦だったりするわけで。

弱い人は駒でいいです的な。

 

それが嫌で勉強大事だよって言うんだけどな(笑)

 

これからもやくざ社会を突っ走るのか、誰もが生きていけるような社会を目指す人が増えるのか。そこかなあ。

 

スピの社会の親分て完全にあっち系に近くなるでしょ?

子分を囲って、自分のお気に入りしか入れないし、異論は認めないし、洗脳と勢力拡大にしか興味ないし。

 

それって人を幸せにするところからずいぶん離れていくんだよな。

 

結局、単独でやっていくことが本来の宗教で、集団になると人はバグるのかもしれないです。

 

弱者支援もそうかも。

 

つらつらと書いているうちに時間が!勉強に戻ります。

 

今日も素敵な一日を。

 

 

 

 

求めてるのはどっちだ問題

今日もいい天気だけど

明日からの仕事を思うと、家の中を少しは整えておきたい。

家でゆっくりしたい。身体が二つ欲しいよ~~~

 

布団干せたから良しとしよう。

 

さて。

 

世の中、思いやりが必要だ、愛が大切だって言ってる人が上↑みたいな風潮があるけど

「言ってる人」が必ずしも実践しているわけではないよね。

私が観察したところによると

思いやりがあって、人に気遣いをしている人は

それが普通だから、そういう姿勢で生きてるだけだから

別に何も言わないし、それ以上を目指したりしてる。

 

そして、それがデフォルトとして

他人に対して要求もする。

自分ができてるから、相手にも普通に要求できるんですよ。

 

私も男性には気遣いも家事も育児も求めてきたけど(笑)

それ以上に自分もやってたわけ。

 

だから、求めても相手は嫌がらずにやってくれた。

 

そういうことなのです。

 

男に何かを求めるのがダメだと思ってる女性の中には

「男にサービスしてもらえないのが当たり前」という思考があって

そのせいで、求めることを自分に禁じていて、それがいいことだと思い込もうとしてる。

男に尽くされてる女を見るのが不快だから

「思いやりがない人」と非難する、みたいな傾向がありませんか?

 

不倫を叩くのもそういう感覚なのかなと思うことがあります。

 

わたしだってしたいのに、わたしだってモテたいのに、わたしだって・・・って。

だけどあなたをいら立たせてるのは、不倫してる人じゃなくて

実行できないあなた自身。

 

誰かの行動を規制することで安心を得ようとする「くれくれ精神」ですよね。

 

不倫してる人がわがままなんじゃない。

不倫を見て「いらっとしてその人を戒めようとする心」のほうがわがままだと思う。

 

私を安心させてほしい、私にも男をあてがってほしい、私の男を取らないでほしい・・・

 

自分でやりましょう。

 

男を取り返しましょう。男にモテるようになりましょう。

男に求めて生きましょう。

人に文句言う前に自分で動きましょう。

そもそも自分の結婚生活を振り返りましょう。

結婚制度についてよく考えましょう。

そして、人から安心をもらうのをやめましょう。

 

尽すほうが幸せだとか、求めるばかりってわがままだとか言う人のほとんどが

「わたしに優しくしてちょうだい」って心が叫んでる。

求めたらいいやん。誰も文句言わへんで。

もっともっと要求したらええやん。それだけの価値がわたしたちにはあるよ。

 

話はそれからだ。

 

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