数値で表せない痛みを緩和するために
人生で初めて手術をした。
とても怖かった。
いくつになっても怖いものは怖い。痛いものは痛い。
入院は初めてではなかったが、気づいたことがあった。
自分が何を求めていたかということが。
医師も看護師も、どうしても患者を数値で見てしまう。症状で判断する。
そこに「気持ち」は入らない。そんなものを入れたら判断が狂うと思っているかのようだ。
しかし。人間は数値ではない。
たしかに、腕はいい。だけど、痛いとか苦しいと訴えても、その返事で癒されることがないのである。
私はいくつかの試練を経て、痛みを訴えることにも躊躇はしないし、だからって相手に丸投げをすることもなくなった。最後は自分で何とかすると決めているし、ある程度の知恵と知識を身に着けたからである。
私が自分に用いるのは、東洋医学的な知識で会ったり、瞑想だったり、民間療法的なものである。
痛い時に「痛いね」と自分に話しかけることもそうだ。
そういう工夫を知らないまま、ただ「我慢すること」「気のせいと片づけること」は、最終的にちょっと苦しいなと私なら思うからだ。
手術前の恐さや、手術後の痛みに対応するために
「それぐらいなら我慢してください」みたいなアドバイスは
「突き放された」としか思わない人もいるのではないかと思うのであるが
ある種の人たちは「そういうもの」と諦めているかのように見えた。
私は感覚過敏なところがある。だけど、別に医師や看護師は非人間的なのではないが、職業柄そうなってしまうことも理解している。
であれば、痛みや怖さに耳を傾けてくれて、そっとそこに手当てをしてくれる人がいてもいいのではないかなと思ったのだ。
病気を治すわけではないが、怖さを和らげることは手助けになるだろう。
痛さでパニックになっている人を落ち着いて痛みに向き合える状態にできるかもしれない。
私はもともと、不登校支援をしたいと思っていたけれど
いつしか、もっともっと全体的な、「病院やどこかに頼るほどではないが、誰かに聞いてもらいたい痛み」に耳を傾ける人になりたいと思った。
そして、自分自身が痛みに弱いことから研究してきた「病院にかかるちょっと前にできること」を使って、何かできないかなと思っているところである。
「はい薬」「はい病院」では癒されない部分。
誰かに手を当ててもらいたい気持ち。あったかいお風呂に入れてもらったような心地よさ。そういうものを提供できることをしたい。
「痛み」を表現しても大丈夫な。
「そんなもの、痛くないでしょ」「ほっといたら治るよ」「気の持ちようだよ」などと「痛い」と言うことを止められてしまった人に。
それは、心の問題も同じです。
意見を言うことを止められた人たち。
痛い目に遭ったことを話しても受け止めてもらえなかった人たち。
私はそういう人たちの話を聞きたい。
数値で表せない痛みを緩和したい。
民間療法や針灸や整体を嫌う人もいるけれど
「それだけ」ではなくて「あれもこれも」の併せ技ができるのが現代のいいところだと思う。
私が幼い頃に望んだことは、「痛い」→じゃあお医者さんね、お薬ね、ではなくて
「どこが痛いの?」「熱あるの?」と体に触れて確かめてもらうことでした。
そして、ずっと身体をさすってもらうとか、おかゆを作ってもらうとか、何か「あなたのことを思ってるよ」という「気持ちの表現」が欲しかったのだと。
誰かの心に触れる時も同じです。
しんどい、学校に行きたくない、食べられない・・・それは足に異常があるわけでも、胃に穴があいているわけでもないことのほうが多いわけで
理由を追求して解決するのも大切だけど
同時にその「辛さ」に寄り添って話を聞くことも必要。
「どうせまた、さぼりたいんでしょ」「精神的に弱いから」「きっと試験から逃げたいからそうなってるんだわ」
と決めつけて、その子にしゃべらせない親も多い気がする昨今。
わたしはただ、その人の話に耳を傾けて、心をほぐしていきたいと思う。
ただ語ることで、その人本人が勝手に解決できていく道もあるし
痛みが引いていくこともあると思うから。
解決やアドバイスではない、ただの傾聴でもない。
そんなセッションと
五感を使った癒しをこれから提供できるように
改めて決心が固まったところです。
ご興味のある人がいらっしゃいましたら
お話ししましょう。
お話し会とかやったら来てくれる人、いるかな。