やっぱり人それぞれなんだろうな
息子がお抹茶をたててくれた。
夏の終わりの、夜に。
開けたての抹茶の薫りは
清涼感があって
するすると喉を通って行った。
今日、眠れるかどうかは別の話だ。
「何でもひとりでやろうとするな」と言う人がいる。
わたしは、いつもその言葉に引っかかる。
程度の問題だろ、と思う。
「ありがとうと言ってたらいいんだ」という言葉にも引っかかる。
どちらも、過剰になりすぎるとただの嫌味にしかならない気がするからだ。
祖母は、認知症を患ってからというもの、ずっと「ありがとう」と言っていた。
いや、患う前から言っていた。
一人暮らしをしていた祖母は、夕食時になるとうちに来た。
母が作ったご飯を見て「旅館みたいやなあ」「ありがたいなあ」と言った。
けれど、私には、その言葉が言葉にしか聞こえなかった。
とても白々しかったのである。
意地悪な人ではなかった。
けれど、本音で「ありがとう」と言ってるようには思えなかった。
わたしは、祖母の本音を聞いたことがない。
いつも、仮面を被っているような存在で、孫を可愛がるということもなかった。
一番下の妹は、認知症になってからの祖母と接した時間のほうが長いからか「ありがとうと言う可愛いおばあちゃんだった」という認識なのは、距離感の違いかもしれない。
仕事で関係している人に、その祖母に似た人がいる。
「ありがとう」とはいうものの、常に「誰かに、自分ができないことをしてもらおう」と狙っている感じを醸し出していて、近くにいる人が「いらっとする」ことが多々ある。
感謝もするし、人を頼るのも上手だ。
けれど、いらっとさせられる。
とにかく「ありがとう」さえいえば、何を頼んでもいいんだ、人をあてにしていいんだ、と思い込んでいるのがわかるからだろうか。
わたしは、彼女のようになりたくない。
軽い「ありがとう」を連発する人間になるぐらいなら、自分でやることを選びたい。
彼女のような生き方は、私にとっては幸せではない。
どんなにお金に不自由しなくて、なんでもかんでも、人にやってもらえる生活だとしてもだ。
そう思うと、人は人、自分は自分なのだなと思える。
私にとっての幸せとは、少し頑張ればできることもやらずに済ますことではないのだと気づかされる。
そして、誰かの私への好意があれば、その感謝がまっすぐ相手に伝わることを望む。
自分の力を出し惜しみして、誰かの全力をあてにして生きるなんて嫌だなあと思う。
それが自分自身の望みなんだ。
他人を見ると、自分がわかる。
わたしは、どんな生き方がしたいのか、どんな人でありたいのか。
それを教えてくれるのが、他人なのだと思う。
多くの人を見て
一巡して
私は自分に戻ってくる。
わたしはどうしたい?何が欲しい?どんな人でいたい?
毎日毎日、わたしになっていく。
京都で見かけたおしゃれなエントランス。