小さな決意
3時ごろ、急に暑くなりだしたと思ったら
帰宅時には雨。
そして、冷たい空気。
一日のうちに季節が移り変わるのね。
今日、ひとつの決意をした。
それは、ジャッジする人たちに関わらないということ。
ある記事を読んでしまって、心がざわついて消えなくなってしまった。
それは、シュタイナーシューレに通わせている親をジャッジする文章だった。
わたしは、シュタイナーシューレに関する本をたくさん読んできたし
実際に見学にも行った。
ただ、私に、日本のシュタイナーシューレは違う気がする、という感想になったけれど
それは「私にとって違う」だけであって、そこに居場所を求めて行く人がいることに意見はない。私にとって居心地が悪いというだけで、そこに居る人のことを分析する必要などないじゃない?
自分がそこに違和感を感じることと、その違和感を何か理由づけて、そこにいる親をジャッジするというのは全然違う。
親だけでなく、その親に育てられた子どもがどうのこうのと書いてあった。
とても悲しくなった。
そして、わかったんだ。
私は、そんな風にジャッジする人たちの文章を読まなくていいということが。
昔から、私が嫌いだったのは、子ども達を自分の好みで優劣をつける大人。
他人を、ステレオタイプに分類して、判定する大人。
「こんなことをされて痛い」「悲しい」と言うと
「大変だったね」という言葉の代わりに「どうしてそうなったのか」を解説し、原因を必死で痛かった人の中に探し、アドバイスしようとする大人。
私の考えはいつも同じだ。
人間にいい悪いはない。
あるとすれば、システムの問題である。
何もかも個人の責任だと断定して断罪し出来る人などこの世にいないということだ。
そんな簡単なことが、どうしてわからないのかが、ずっとわからない。
生まれ落ちた国によって、街によって、性別によって、肉体によって
影響されるのが人間なのだ。
自分一人で完ぺきに生きていける人などいないし
努力できることすら、その人自身だけでできたものではない。
親だけの問題ではないし、子どもだけの問題でもない。
当然そこには学校制度の問題があり、テレビなどの影響もある。
様々な要因が絡み合って「たまたまそうなっているに過ぎない」
システムが変われば人なんて簡単に変わる。歴史を勉強すればすぐにわかるでしょ。
発達障害の定義なんて毎年変わってるんだよ。
それを、「人間とは○○だ」などと言う人たちがいっぱい湧いてきた。
見ないように避けることもできるのに、どうしても見てしまう。
やっとそういう人たちに関わる時間がもったいないと思った。心がもったいない。
自分が望む世界を描いてそちらに向かっていきたいと思った。
「気づかない人は変われない」だとか「受け取り下手だから受け取れなんだ」とか。
人を見下すのに、こんなにたくさんの手口を使って。
いつの間に、そういう世界に浸かってしまったんだろうと思うと悲しくなった。
占いや精神世界は、人を裁くためにあるのではないはずだ。
人を幸せにするために存在したはずだと私は思う。
質問攻めにして、人を思考停止に追いやって、二者択一しかできないようにする人もいる。その質問の前提がおかしいのだ。確実に、人を追い込むように作っている質問がある。
秒速で答えを求め、相手に深く考える隙を与えない。直観だと言い負かしているけれど、答えがない、迷っている状態で直観など働くわけがない。
洗脳の手口と同じで、質問攻めにして泣かせて考えられなくしてしまう。
相手の言うことを全部信じるしか方法がなくなるように仕向ける。
そういうやり口に違和感を感じつつ、私も参加してしまったことがあった。
まあ、何でもやってみたかったし、経験したかった。どこに正解があるのか、とことん調べてみたかった。
とんでもない目に遭うことがたくさんある。それでも、わたしは、人間をあきらめられない。「しょうがないなあ」と思いつつ、自分の限界まで理解したいと思ってしまう。
だからこそ、自分の世界観だけで簡単に、普通に生きている人間をジャッジする視線を持つ人たちすら理解したかったけれど、しんどくなってきた。
(しいたけ占いは読むけどゲッターズは読まない、というのはやってるんだけど)
わたしは、そういうことを言いたくて、そういう人たちと交わってきたんだなあとはっきりと思う。わざわざ「違い」を感じたくてそこに居たのだと思う。
不快のない世界を望むなら、そこだけに焦点を合わせればいいのに。
わざわざ違いを見なくていいのに。
何を勘違いしていたのだろう。
それもまた、「ジャッジして、他人にお説教する人たちのいる世界こそが当たり前で、私が間違っている」という思い込みがすべての始まりだった気がする。
たったひとりでもいいんだ。私だけがそれを夢見ててもいいんだ。
希望だけを見つめて生きていきたいんだ。