祈り
今日は、親友がお花見に誘ってくれました。
今年は仕事で桜をたくさん見ているからと思っていたのですが
桜の木の下で過ごす時間はとても素敵な時間になりました。
美味しい和菓子とペットボトルのお茶だけで、幸せ(*´ω`)
「祈り」は、キリスト教でよく使われる言葉で、仏教は「お経を唱える」が普通なのかなと思っていました。
そして、祈ってる時間があったら行動したらいいのに、と思ったこともありました。
どちらかというと自己満足的なもの、と捉えていたような気がします。
ですが、今日を境に、私の中で「祈り」は最強のツールになりました。
体調があまり良くないこと、大きな失敗をしたこと、子どもの入学式を控えていることなどが重なって、今日の私はぐだぐだでした。
親友がお花見に誘ってくれてとても嬉しかったのですが、それでもまた、夕食後に眠くなってしまい、体調に引っ張られるような感じで、ネガティブな気持ちがぬぐえない時間を過ごしていました。
お布団の中でふと「写経しよう」と思い付いたのが夜の9時。
お線香を焚いて写経を始めました。
書き始めた途端、「祈り」がやってきたのです。
全く意識していなかったので自分でも驚きました。
「私に関わる人たちが幸せでありますように」と一文字書くごとに祈りました。
大きな失敗も、子どもたちが思うように動いてくれないことも、その他のコントロールできない様々な出来事も、「祈るしかないんだなあ」と思ったんです。
自分が動いて何とかできることなら動きます。
けれど、他人は変えられない。過去も変えられない。誰かの気分を変えることもできない。私の気持ちがそれでざわざわするのなら、私の気持ちは「祈る」という動きで変えられるのだということに気づいたのでした。
「何もできない歯がゆさ」「自分がどう動いても動かせない人の気持ち」「ジレンマ」「役に立たないという罪悪感」などが、祈ることです~っと消えていきました。
写経の後の清々しさと、小さな出来事が好転したことに驚きました。こんなに効果があるのなら、もっと祈ろうと。
昨日、ある番組で、瀬戸内寂聴さんが「恋をしなさい。恋するためには自分から愛しなさい」とおっしゃっていました。私も、常々「自分から愛すること」が基本だと思っていたので、とても心強く思ったのですが、それは「恋」に限ってのことで、子どもたちが言うことを聞かないとか、仕事で嫌なことがあったとか、そういう時に「自分から愛する」のはハードルが高いなと思っていました。
だけど、「祈る」ことならできるのです。
恋人を愛するように、子どもや職場の人を愛することは難しいけれど、祈ることならいつでもできます。
そして祈ることと愛することは、それほど変わらないんじゃないかと思ったのです。
外の世界が思うようにならない時、私たちは自分を責めたり、他人を責めたりしてしまいます。だけど、「思うようにならないこと」をそのままそっとそこに置いて、関わっている人たちの幸せを祈るだけで、責める気持ちが消えます。
するとね、「思うようにならないこと」が気にならなくなるみたいです。
自分を責めて生きている時、人は、他人にも反省することを求めます。
そうしないと気持ちが収まらないんです。
自分に対してネガティブな感情を抱いている限り、他人を責めてしまう、他人に反省を求めてしまう。
それをやめるために祈る。自分の気持ちに平安を取り戻し、誰も責めることなく生きていけるように。自分の中に綺麗な川が流れていくような感覚を取り戻すのです。
すると、現実も変わる。なぜなら、祈りの気持ちで発した言葉が変わるから、祈りの気持ちで接する態度が変わるからです。
平安の祈り
神様 私にお与え下さい
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを!
変えられるものは、
変えてゆく勇気を!
そして、ニつのものを
見分ける賢さを!
基本に戻る時に思い出します。これを、皆様にも。
★子どもの悩み、自分の悩み、近所で話せないあれこれ。 お話してみませんか。一時間5000円です。 土曜日から月曜日は全日、火曜日から金曜日は夜間。お申し込みはこちら→