気のせいは案外正しい、自分にとって
今日は外が嵐です。春だと思えない寒さですね。
昨日、がっつり体力仕事をしたため、今日はほぼ寝ています(笑)
仕事で言われたんですけど
「それ、気にせいじゃない?」って。
そうね、気のせいだけど、気のせいって大切。
同じことを話しても「わかるよ、悲しかったね」って言ってくれる人もいる。
感性の違いなのかな。
私が思うに、いじめられた気がする、ひどいことを言われた気がする、なんかされた気がする、ということを報告した時に「気のせいじゃない」の一言で済ませる人は、自分自身の違和感も「気のせい」にして、感じないようにしてるんだろうな。
わたしはそれをしない。感じる。そして見逃さない。辛くても見る。
あるブログで「他人から受けたものは、流せばいい」ということを読んで、目からうろこだったのですが、わたしはすべて「まずは感じて受け止める」んですよね。
だけど、自分の中から湧いてきた悲しみや寂しさは、出産の痛みと同じで耐えられるんです。それこそ、Mですかって言うぐらい、内臓が引っくり返るような思いをしても耐えて超えて見せる。
でも、他人から受けた痛みや「気のせい」は、耐えられないんですよね。流せばよかったんだ~~~気のせいで済ますのでもなくて。
他人からの痛みに鈍感な人は、世界中にいます。自分が苦しみに耐えているんもんだから、痛いと言われることすら意味が分からない。いじめがなくならないのが、理解できた気がしました。
私の感情は私のもの。誰に「気のせい」と言われようが、その「気のせい」が与えた影響はあるんだよ。
誰かに、痛みを報告されたら「何とかしなくちゃ」と思う人も、すぐに「気のせい」とぶった切る傾向にあるね。
自分には何もできない、だから言わないで!っていう防衛をする。
わたしは思う。
「気のせい」をもっと発信すればいいのに。
もっと自信を持って「気のせい」を感じればいいのに。
そしたら直感も第六感も開いていくんじゃないかな。
私には「気のせいかもしれない」ことをたっぷり打ち明けて欲しいと思う。
妄想もいっぱい聞きたい。
その人の世界を見たい。
世界はエンターテインメントだと私は思っていて
いちいち「正確さ」や「明確さ」で区切って、それで人を切り捨てる判断に使う世界が苦手なのです。
得意なことを進めようとすると潰してくる人、いちいち「あなたのそれは問題よ」と悲観的なことしか言わない人。そんな人はそんな人で固まって、「批判されない私たちの城」に居続ければいいのに。
もっともっともっと。
羽を伸ばしてのびのびと生きていきたい。
気のせいを信じて。
最近、ふとうこうカフェの宣伝をしていません。
4月に、茨木市の広報と一緒に入っている社会福祉協議会の冊子に、一面掲載される予定になっております。
ここで宣伝しなくてもいいかも、と。
これも気のせいです(笑)
愚痴や悩みをいっぱい聞いちゃうセッションをやってます。
わたしは何も言わないけれど、なぜだか勝手に話してくれる。 そして、すっきりするみたいね。
心に溜まったものを落とすのにご利用ください(*^_^*)
怒らないし、説教もしない。だけど、あなたが見つけられないあなたの良さは言うかもね(≧▽≦)
占いより安く、マッサージよりはちょっと高い。
1時間5000円です。 場所は梅田のカフェか自宅になります お問い合わせいただいてからご案内いたします。
毎週月曜日受け付けております。夜は8時以降ならお電話でも。
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