風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

無理だと言われること

さきほど、渡辺直美さんの記事を読みました。

親から、お笑いを無理だと言われていたことが書かれていました。

親って、子どもの才能について、客観的に見えないものなんだなと思います。

 

大学生の時、わたしは、キャンプのお姉さんをやっていました。

家族の誰もが「似合わないことをやってる」と思ったに違いありません。

キャンプを卒業した時、父親が「一週間で音を上げると思っていた」とはっきり言いました。ほんとに、そういう娘だったらからです。

 

体力がなくてごろごろしている姿しか見せなかったし、

友達も少なく、人前で何かをすることなんてできませんでした。

・・・というのが、私の一面でした。

 

でもそれは、家族の中での私の姿であり、そういう姿を見せることが私の家族の中での役割だったからです。

 

今の私は、ちょうどキャンプのお姉さんをやっていた自分と重なります。

誰もが「無理だろう」と思ったことをやっています。

元の家族から見たわたしは、甘えた姉であり、世間知らずであり、偉そうで、友達が少なく、学校嫌い、何一つできないに違いないっていう・・・。

家族ってね、家族に対する色眼鏡は一生外さないみたいなんですよね。

どんなに外で活躍しようが、「あの子はそんなことできないし」・・・いやいや、やってるけどね、すでに(笑)っていうのが見えない。

 

親は、超理想を求めます。

それは、自分自身にとっての、最高の子どもの姿です。

どんなに活躍していても、「あそこが足りない」「あれではだめ」とダメ出ししかしない。足りないところしか見えない。

 

でも、その「親が私なんてダメだって言ってるから」ということに甘えて、「ダメな自分」のままでいることは、自分を殺すことだと思うんです。

 

わたしは、親の思う通り、体力がありませんでした。

だけど、キャンプ場では休むこともできたし、そのおかげで、人に頼ることや、しんどい時のみっともない自分を仲間にさらけ出してくつろげる自分になりました。

そういうレベルのことを、親は想像できないんですよね。

最初から体力があって、適性があるコトしかしちゃいけない、みたいな。

 

わたしは、親が心配することはクリアーしたのですが、結局、子どもたちとおしゃべりすることだけは、最後まで苦手でした。

致命的じゃん(笑)それでも、4年間、やり通した上に、子どもたちと接すること以外の、スタッフ育成などの実力を磨いて卒業したのです。

 

親という生き物は、自分の価値観が絶対だと確信しています。

「お前にこんなことできるはずないだろう」という目で見ようとします。

 

だからこそ、そこから脱出しなければなりません。

いつまでも「できない俺」「できない私」=「守られる子ども」ではダメなんです。

 

親離れ、親殺し(思想的な)をする必要があるのです。

 

今、私のやっていることは、もし昔の私が「これをやりたい」と言ったら即座に「やめとき」と言われたことです。

場を作るとか、人と話すとか、初対面の人といっぱい会うとか・・・。

「お前は人を傷つけるから無理だろ」「お前は気が利かないから無理だろ」と親に言われたに違いありません。

 

人は、体験によってのみ、変わるのです。

生まれた時からパーフェクトな人間性を兼ね備えた人などどこにもいないのです。

それを、「今がダメだから、将来も無理ですよね」と決めつけるのは、将来を潰すことと同じです。

 

わたしは、元の家族の中で「嫌われる役」を率先して演じていました。今は、そうする必要がなくなったので、誰にでも好かれるよね~って思いながら生きています。好かれるの、大好きだから(#^^#)

嫌われ役も慣れてるから、その手法も使えるんです。使えるってすごいことですよ。

そういう役目が与えられても、特に問題なくやってのけられるってこと。

 

でも、自分は嫌われないって知ってるからね。

 

今では、私の親は、私がうらやましかったのだろうと思います。

ニコニコしてるだけで好かれちゃうわたしのことが。苦労しないで好かれるわたしのことが。

だから、笑顔を潰すようなことをいっぱいしてくれた。

お前なんて嫌われるやつだ、お前は嫌な人間だ、お前は絶対に好かれたりしない、と思い込ますのに必死で。

でもそれもまた、修行で、わたしは自力で思い出した。

 

思い出したら忘れないのです。

私が生まれたのは、笑顔のためだと。

一度、笑顔を忘れる体験をしに来たこと。

そのためにあの家族に生まれたこと。

 

子どもの自由さを嘆く親は、ホントは自分が自由になりたい。

子どもの偉そうな部分が許せない親は、自分が偉そうにしてみたい。

そんなことして生きることができるなら、私だって、もっと楽に生きられたのに!

その姿を子どもに毎日見せつけられるから、辛いのです。

 

自分ができないことを、当たり前のように要求し、当たり前のように甘えて生きている人間が側にいると、それはそれはキツイでしょう。

 

子どもが教えてくれているのは、自分が何を抑えて生きているかということ。

 

子どもを抑制することで、自分が思い通りに生きていないことを正当化しているとも言えます。

子どもを真似て、もっと自由に生きてみたらどうかな~。

 

引きこもりが気になるなら、自分も引きこもってみる。

存分にわがままに引きこもってみたら、意外と生きていけるかも。

自由さが気になるなら、自分も自由にしてみる。

みんなに命令して、わがまま全開で生活したら、意外とみんな言うこと聞いてくれるかも。

「わたしがやったらこてんぱにやられる」と思うから、子どものその行動を禁止したくなるんですもの。自分がやっても生きていけるんだよ~。

 

親の子どもへの「ダメ出し部分」は、その子どもの一番の可能性の部分です!

 

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