風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

セカンド虐待

洗濯機を二回回して窓を拭く。

これだけのことが贅沢に思える。

 

照り付ける太陽で室内は明るい。

 

穏やかなお盆を過ごすことになりそうだ。

 

私がここのところ、ひとつ抜けたのは

幼少期の虐待(と言えるか言えないかわからないようなことでも)の記憶は、手を変え品を変え、自らが加害者となるように向かっていくのだなあということがわかったからだ。

 

毒親と呼ばれる人たちも、実は被虐待児だったりする。

自覚せずに親になり、自分がされたことを繰り返す。

一番簡単なところでは、部活でしごかれた後輩が、辛かったと自覚できず、先輩になった途端に「しごきはいいことだ」と後輩をしごきまくるというのと同じだ。

 

この図式はあちこちで繰り広げられており

心理学方面でも当然のようにそれがある。

つまり、精神的にクライアントを追い詰めるというものだ。

 

自分が成功したから、結婚できたから、子どもが生まれたから、お金がどこかから降ってわいたから、なんだかうまくいったから・・・。

そういう理由で自分を正当化した後に、人は、人を、洗脳しはじめる。

「私と同じような考え方で生きたほうがいいんだよ」と。

それはまるで、過去に自分がやられたことの復讐のようだ。

 

自分が生きていたことへの確信を「やっと持てた」ことによる、脳のバグだと私は思う。

「辛かった私でも成功できた、だからあなたも同じように頑張ればできるはず」と思い始めるのは、自然な流れのようである。

 

わたしはそれをセカンド虐待と呼びたい。

 

虐待で傷ついた人を集めて「私だってこんな風になれるんだもの、あなたたちがそうならないのは、虐待にこだわったり、いつまでも怒ってたり、社会に腹を立てているからよ。あなたが変わらないからいつまでも同じところにいるんでしょ」と心理的虐待を始めるからだ。

 

どんなにきれいな言葉を使ったところで、それは、個人の思想の押しつけでしかない。

 

そして、そういう言葉に寄っていくのは、いつも被虐待児たちなんだ。

 

掃除したから、浄化したから、いつも感謝してるから・・・だから私は成功できた、というのが、その人たちの言い分で、でも悪いけど、それ統計でもなんでもないし、その人の成育歴や頭の良さ、実家の太さなども入っていない。

 

「結果」にのみコミットされていて、事細かに思想の順番までレシピになっている。

わたしは純粋に怖いと思う。

 

精神世界系と心理学系と成功哲学系が寄ってたかってその方法を採用し、弱ってる人たちからお金をいただくことに成功してきた。

依存させたり、抑圧したり、あるいは、余計にしんどくなった人もいるだろうけれど、そういう人たちは、目に入らないか「クライアントの出来が悪かった」と切り捨てられて悪しきモデルとして登場させられたりしている。

 

以前は、まっとうなことを言ってた人が、奇跡的な出来事が起きた途端に発言がぶれてきたのを見た時、「これだ!」と私は思った。

 

被虐待児が、結婚して子供を産んだとたん「私も偉くなった」「子どもに言える立場になった」とばかりに虐待を繰り返すのも、同じだと思った。

 

そこにあるのは「自覚のなさ」だと思う。

虐待されたのに、「親は悪くない」と思っていると、親と同じことをしても平気になるのは当然のこと。

 

自分の身の上に起きたことを客観的に眺め、相手の分析をしてはじめて、自分が同じことをしないように気を付けることができる。

 

今は必死で他人に心理的虐待を繰り返す人たちがSNSにたくさんいて

「うまくいく人いかない人」とか「運のいい人悪い人」というラベリングをしている。

何の意味もないそのラベリングに惹かれて読むのは「うまくいってない人たち」だ。

説教して悦に入ってる様子は、虐待親と何ら変わらない。

 

誰かを励ましたり、誰かを勇気づけたり、元気にするのに、なぜラベリングが必要?わざわざ、弱ってる人に対して「あなたの運が悪いのはあなた自身が悪いんです」って結局その人を痛めつけることでしかない。

 

挙句の果てに「行動しないから変わらないんだ」と言う人が、「わたしはいいことを言ってます」と思ってて、不思議で仕方がない。

アドバイスなどしょせんアドバイスに過ぎないと知ってる人なら、「行動しなきゃ意味ないんだよ」みたいな脅しはしないだろうと私なら、思うよね。

 

そういうセカンド虐待的な人たちから距離を置くことで

私はずいぶん楽になった。

セカンド虐待をする人たちは、寂しい人たちを依存させようとするから

なんやかんやとお節介を焼くことで、その人が寂しさに直面することを避けさせる。

お金のために。

 

寂しいことは悪いことではない。大切なことだ。

 

毒親から離れたと思ったら、セラピストが毒親の代わりをしてた、なんていう事例がゴロゴロしてるんじゃないかなと思う今日この頃。

 

きれいごとや罪悪感を刺激するような説教から離れてみよう。

 

そしたら現実がいきいきと迫ってくるよ。

 

自分の人生を生きよう。誰かの人生を埋めるための道具になるな。

 

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自分を責めないということ

今日はいつもお世話になっている杉原鍼灸院(銀天堂)の日。

 

www.gintendo.com

 

右側にかなり疲れが溜まっていて、ちょっとした鍼でも痛い。

原因を頭の中で必死で探っていたのだが

最後の最後に「仕事で苦手な人が右にいる」ことに辿り着いた。

 

なんだろうな。この否認の感覚。。。と我ながらおかしくなった。

 

自分の中で「これかもしれない」と思っていたことの可能性が消えた時

「まだ自分を責めようとしてる」と思った。

 

最近、SNSを整理した。

いわゆる、私の罪悪感を刺激する投稿をするものを全部やめたのだ。

刺激が減ってつまらなくなったのも事実。私は、自分を刺すことが普通だったんだなと気づいた。

 

人間関係で悩むたび「あなたは変わろうとしないから」「頑固だから」「いつまでもそうしたいんでしょ」「得だから嫌われようとしてるんでしょ」というどこかで聞いたセリフが頭の中でこだまする。

 

それに気づいた時、「わ~~~~!!!!」とバイクの上で叫んだ。

他人に言われてると思ってたけど、自分で自分に言ってるし!やばいし!って。

 

もうやめようと決意した。

 

私の中にあるこびりついた思い込みは「みんなと仲良くできなければいけない」だ。

この日本でもっとも強い呪いの言葉だ。

「かわいそうなぼっちの人を救いたい」人たちが、「なんとか仲間に入れてあげなければ」と他人を変えようとする。

「そのままじゃひとりぼっちになるよ」と脅してくる。

「どうして私は仲良くできないんだろう」「どうして私は・・・」の罠にはまっていき、「こうすればいい」と言う人の言葉が溜まっていく。

その繰り返しが今の私だった。

 

寂しいことは悪ではない。

 

ここ最近、複数の人から「ひとりになっても大丈夫」「徹底的に自分を大事にしなさい」「それでいいから」という言葉をいただいている。

その意味がやっと腑に落ちてきた。

 

わたしはどうやってもわたしなんだ。

 

家族やカップルがうらやましいと思う時、寂しいと思う時

私の体調は悪い。

世間のひな型に自分を合わせようと考え方を歪めていることがわからなくなる。

私を変えようとしているのは、私だった。

ひとりになりたくないと叫んでいる幼い頃のわたしだった。

 

いやもう、大丈夫やしな。

たとえひとりになったとしても。

 

「重大なお願いがあるねん。今日ご飯一緒に食べよう」と友達からラインが来た。

何だろうと思ったら「小説書いてるねん。誰かに読んでもらいたいと思った時、”そうや、本を読むやつおった”と思ってあなたに連絡した」とのことだった。「一緒にやらへん?」て誘われた。

余計なことを考えさせられる集団から離れた途端に。

 

わたしはひとりでもないみたいだ。

 

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花火

 花火を自宅で見るのが

私の唯一の楽しみだった。

 

引っ越し前は。

 

本日行われている淀川の花火大会も観ることができた。

 

去年は天災があって中止になったが今年は開催されるという。

 

今の家は、花火を打ち上げる山の裏側だが、どんなふうに観えるか想像できなかった。

 

午後7時半。大きな音がした。

ベランダからはっきりと花火が見えた。

 

これは神様からのご褒美だろうかと思うほど、大きく見えた。

 

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毎年、友達や親を呼んで楽しんでいた。今年は息子と二人。

でもきっと、父親も一緒に見ているのだろうと思った。

 

 

お盆の夏の夜に。

 

悩みも何もかもどうでもよくなるほど美しかった。

 

花火のように大きな花を咲かせて散りたい。盛大に。みなを楽しませながら。

フラットな立場なんてない

先週の休日に動き回ったツケなのか

今日も一日ベッドの上で過ごした。

 

夕方、外に出てみると

面白い空があった。

息子が調べてくれたのだが

雲の影らしい。

 

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王将へ行って、お腹いっぱい餃子を食べた。

 

おいしいものは幸せだ。

 

きな臭いニュースがやってくるたびに

私は思う。

 

「差別はいけない」と口先で言い、理屈ではそう思っているけれど

今の日本に差別は蔓延している。

でも、自分が差別する人間だと思いたくないあまり

心理学の言葉を利用したり、「差別ではなく区別だ」と言ってみたり

「自己責任だから」と相手のせいにすることで、自分の中に加害者性に蓋をする。

 

見たくないものに対して、綺麗にラッピングしたがるか、排除するかのどちらかである。

 

差別しない、公平な大人など、この日本には一人もいない。

そこにいるのは、自覚をもって生きてる人か、自覚なしに生きている人のどちらかである。

 

人に対して厳しいとか批判的とか言われるのは

私がそう思って世界を見ているからだろう。

 

 

民衆の暴走は止めようとするが、権力の暴走は見て見ぬふりである。

それが日本の性格なんじゃないかな。

今の日本は、まるで、侍が好き勝手に人を斬ってた時代に逆戻りしているようだ。

 

令和の時代になっても、夫が「コーヒー」と言えば淹れてしまう妻がいて

子どもの後始末をやりがたる母親で溢れてる。

 

男はいつまでも子どもで、甘やかされて、暴走する。でも止めない。

女の暴走はお互いに監視して止めようとする。

そういうところだと思う。

 

たっぷり昼寝をしたから、今日はクリムト特集の別冊太陽を眺めながら寝ることにする。

 

 

 

 

フラットな立場なんてない

先週の休日に動き回ったツケなのか

今日も一日ベッドの上で過ごした。

 

夕方、外に出てみると

面白い空があった。

息子が調べてくれたのだが

雲の影らしい。

 

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王将へ行って、お腹いっぱい餃子を食べた。

 

おいしいものは幸せだ。

 

きな臭いニュースがやってくるたびに

私は思う。

 

「差別はいけない」と口先で言い、理屈ではそう思っているけれど

今の日本に差別は蔓延している。

でも、自分が差別する人間だと思いたくないあまり

心理学の言葉を利用したり、「差別ではなく区別だ」と言ってみたり

「自己責任だから」と相手のせいにすることで、自分の中に加害者性に蓋をする。

 

見たくないものに対して、綺麗にラッピングしたがるか、排除するかのどちらかである。

 

差別しない、公平な大人など、この日本には一人もいない。

そこにいるのは、自覚をもって生きてる人か、自覚なしに生きている人のどちらかである。

 

人に対して厳しいとか批判的とか言われるのは

私がそう思って世界を見ているからだろう。

 

 

民衆の暴走は止めようとするが、権力の暴走は見て見ぬふりである。

それが日本の性格なんじゃないかな。

今の日本は、まるで、侍が好き勝手に人を斬ってた時代に逆戻りしているようだ。

 

令和の時代になっても、夫が「コーヒー」と言えば淹れてしまう妻がいて

子どもの後始末をやりがたる母親で溢れてる。

 

男はいつまでも子どもで、甘やかされて、暴走する。でも止めない。

女の暴走はお互いに監視して止めようとする。

そういうところだと思う。

 

たっぷり昼寝をしたから、今日はクリムト特集の別冊太陽を眺めながら寝ることにする。

 

 

 

 

つながり

外に出ると、熱風が顔に当たる。

とんでもない暑い国になったもんだと思う。

 

仕事でほぼ毎日自転車に乗っている。

職場に戻らないで、途中で休憩もする。

 

先日は、トイレを借りようとスーパーに入ったら

小学生に呼び止められた。

私の顔を覚えてくれていたらしい。

 

私は、図書室で働いている人をサポートするために学校に行くので

子ども達とふれあいはあまりない。

それでも、活動するうちに、覚えてくれる子もちらほら出てきた。

 

思いがけないプレゼントだった。

 

私は特に子どもが好きなわけではないけれど

どんな年齢の人であれ、顔を覚えてもらうのは嬉しい。

お金が絡まなければなお良きことだと思う。

 

行き付けのカフェもそうで、私が行くと話しかけてくれる店員さんもいるし

ミスドでは注文を覚えてくれたりした。

 

離婚してからそういうつながりが、一層身に染みるようになった。

離婚前は、特に必要ないと思っていただけに、自分の変化が嬉しかった。

というよりも、私はこういうことがしたかったのだと思った。

 

どっぷり浸かってしまう関係よりも、自分の生活の彩としての人間関係。

常に一人で考えて行動する癖があるからこそ、日常の微かなつながりが、私を生かしてくれる。

 

軽く、軽く、その人の人生に口出さずにいられる関わり。

異性であってもわたしはそうありたいと願う。

 

お互いの人生を尊重しつつ、一緒にいる時は最大限その時間を愛おしむような。

 

離れている時まで、お互いに口出すのはとてもじゃないけど耐えられない。

 

今日は朝からダラダラしている。

誰にも「母親らしくない」だの「人間らしくない(笑)」だの言われない。

自分らしくあればそれでよい。

今日の私は、私の信じるままに。

 

「人との関係」というのは、人によって違う。

だから、早く「自分にとって心地いい関係」を見出して自分でそれを肯定することが大切だ。

私のように、「家族的付き合いができないやつはあーだこーだ」「あなたには何かが欠けてる」などと、全く「関係性」の意味が違う人たちからボコられて、自分を責めるようになったら、とても辛いから。

 

誰かの関係性の理想に、自分を合わせないこと。

他人の理想を叶えようとしないコト。

どんなに寂しくても、自分と合わない人の中にいるよりはずっとマシだということ。

 

今の私がどれだけ満足しているか、昔の自分に教えてあげたい。

あなたは何も間違っていないと。

 

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人に頼れないのは自己責任か

ある場所で、今から書くことを書いたら攻撃されて

誰にも庇ってもらえなかったということをひとこと

書き添えておきましょう。

 

 

今の学校社会において、「頭がいい」という価値は何のよきことも生みません。

30年前と違うのは、「頭がいい」を拗らせる人たちが増えたということだけです。

 

ひとつ。

成績がいいだけで、教師に遣われます。

教師の代わりに同級生たちを見張るよう言われたり

教師の代わりに同級生の面倒を見るように言われます。

 

成績がいいだけで「生意気な子」というフィルタがかかります。

女の子はなおさらそうです。

成績の良くない(頭がいい悪いにかかわらず)女子が好みの教師はたくさんいます。

 

ふたつ。

その教師の評価に対して怒った人たちが

なぜか、教師に怒るのではなく、「頭がいいと思われていた人間」に対して

怒りを向けます。

 

「わたしは、頭が良くなかったけれど、スピリチュアルな能力はあった。だから、頭がいい人にはこんなことはできないんだ」

「ちょっと頭がいいからって偉そうにしないでよね」

などなど。

 

「子ども時代に成績が良かった」というだけで

完璧な人間性まで求められる、期待される。

普通の子どもらしい生活をすること自体が無理やりになる。

 

思いやりがないとか、高学歴の人が犯罪に手を染めるとか

そういうのって、別に頭の良し悪しじゃないじゃないんですよね。

 

倫理観、道徳観、成育歴に何があったか。

そしてそれは、頭脳がどうであれ、思いやりのない人はないということです。

頭が良くないから人間性がいいという因果関係もありません。

 

成績がいいと、やたら教師が頼りにしてくるんですよ。

自分の身代わりをやらせて仕事を減らしてくる。

だから、同級生も「あいつに頼ろう」となる。

そりゃ、成績が悪い人(点数が取れないだけで頭が悪いわけじゃないと思う)のほうが、頼るの上手くなりますよね。

その観点だけから考えるとね。

 

頼りにされる=人に頼れなくなる、ってのは間違いなくある。

 

自己啓発や恋愛本で「頼られ上手になろう」みたいのがあるけれど

はっきりいって、お前ら、人に頼って生きてきただけやんか!と思わず突っ込みたくなります。

 

ノート貸して、教えて、返事しといて、掃除さぼるわ・・・

そうやって他人の人生の時間を横取りして生きてきたうえに

さらに「頭のいい人は頼れなくてダメよね」・・・ってな。

 

 

それもいつか、自分に戻ってくるんだろと思うのですけれど。

 

今や、野球界でも、ダルビッシュさんなど、頭のいい人たちが冷静に発言されてます。決して「おれら、頭悪いからさあ」と無茶な練習を後輩に強いたりしてないんじゃないでしょうか。

 

わたしは、記憶力が良いだけで、別に気持ちに余裕もなければ

統率力もなかったし口下手だったので

教師の言うなりになってしまったということが

子ども集団に馴染めない人間になった一因でもあるなあと冷静に思います。

 

成績が悪いとなんでも許されるんだなあ、いいなあ、と思ったことも一度や二度ではないです。成績がいいのは妬まれるだけだけど、体育ができたり、音楽ができたりするtスターですものね。なんでやねんって。今でこそ、クイズ王などとその才能が評価される(されてるのか?w)時代になりましたが。

女性だし、そこはほんとに、辛かったですよね。

 

完璧を求められる苦しさ。

できないことまで「できるだろう」と思われるしんどさ。

それを口にできる性格ならよかっただろうけど

私は自分の中に抑圧するしかありませんでした。

 

結局、先生って、学校にいる間は頭脳のいい人間を重宝するけれど(教師である自分の評価を上げてくれるからね、生徒は道具に過ぎない)

卒業したら「やんちゃな子が好きなんだよな」とか言っちゃうメンタリティ。

 

学校制度は昔から破たんしています。

なのに、「頭がいい人なんて」と言ってる大人の思考停止っぷりは健在。

 

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人に頼れなくなったのは、あなた自身のせいじゃない。

それを取っ払うのがどれほど怖いか、わたしは知ってる。