風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

私とスピリチュアル的なものとの出会い

私がスピリチュアルというものに興味を持ったのは

おそらく、児童文学だと思います。

伝説や伝承というのは、それ自体がスピリチュアルなものを含みます。

想像上のものだと言い切れない何かを残していると私は考えていました。

きっとどこかにいるのだろう。視えないだけであるのだろう。

佐藤さとるさんの書くコロボックルも、松谷みよ子さんの民話に出てくる鬼やカッパも

洋服ダンスの中に異世界があるナルニア国も、私にとっては単なるお話などではなかったのです。

 

なので、「わたしは視えないモノと話ができます」という人たちが現れた時

好奇心でいっぱいになりました。

本当だろうか?私の思っていたことは、やっぱり本当なんじゃないだろうかと。

 

小学生の頃には、マイバースディやムーといった雑誌があり

それもたまに読んでいました。

図書館に行けば置いてあります。

 

いつかUFO見たいなあ、私にも妖精と会話できたらいいな。

そんな妄想を膨らませるのが好きな女の子でした。

占いも大好きでした。

 

そんな私が、スピリチュアルな世界に魅力を感じたのは当たり前と言えば当たり前でしたが、違和感を感じたことがありました。

その違和感を言葉にするのに、20年かかったわけですけれども。

 

昔の占いには「こう生きるべき」という「べき論」は全くありませんでした。

「今日はいいことあるかなあ」「片思いの彼としゃべれるかなあ」というかわいいものでした。おまじないも載っていましたが、いわゆる自然療法を紹介する走りのような記事だったり、空想で楽しむものでした。

 

それがいつの間にか、心理学的なものや成功哲学のようなものと合体してしまい

無邪気に楽しめなくなりました。

「あなたの毎日はマイナスでいっぱいだからダメなのよ」「神社にお参りしないからこうなのよ」という脅しが入るようになりました。

私にはわからないから何とも言えませんけれども

そんなに簡単に他人の生活や、他人の人生に口を出していいと思う占い師がこれほど増えるなんて想像もしなかったですし

そもそも「視えること」自体が、「信じられなくて当たり前」であったはずで、「信じられないことを信じてくれる人」に対して、主婦をやりながらだとか、副業的に自分の人生をかけてもいない人たちが、言いたいことを言い出す時代が来てしまった。

 

私は、途中から心理学も独学で本を読んでいましたから

「簡単に心理学の資格を取って、占いと話術に信ぴょう性を持たせて売れたらいいわ」的な発想をしている人にも驚きました。

心の問題を扱うということは、危険な状態の人にも「こっちに来て」と言ってるのと同じなのに、もう意味が分からないと。そして、自分が「占えます」「視えます」と言っておきながら、そういう重篤な心の病の人が来ると、ひどいことを言って追い出したり、そのことをブログに書いていたのを目にしました。

 

そして「精神疾患の人は来ないで」という一文が加わってきたのです。

 

え?心理学に欲目出したのはそちらさんですよね?自分が理解できる範囲の人しか来ちゃダメっていう、お気楽な稼業になったんですか?みたいな気持ちでした。

そしてまた、「視える人」というのも、精神疾患と共存するところもあるはずなのに、他人のそれは取り扱えないというのも不思議でした。

 

そうこうするうちに、あらゆるものが生まれては消えていき、あらゆる人たちが現れては消えていきました。(セラピー自体は残ってるけど、もう流行してないとかね)

 

人生相談でお金を儲けることができる時代になりました。

「私は占いを学ぶためにこれだけお金をかけたんです」と言ってる人もいるけれど

そんなの、どんな仕事だって同じですし、お金をかけた分だけ回収できる仕事ばかりではないです。

そんなの大人なら普通にわかること。

小さい頃からお金をかけて育てられて、大学院で研究をして、世界のためになってる人の成果も、それを無料で私たちは、ネットを使って簡単に教わっていたりするんですよ。

 

そもそも、占いやスピ的なことをしている人たちは

「世界を見ていない」ことが多いです。

つまり、自分が育った世界の価値観を引きずったままなんです。

カードの解釈ひとつにしても、占い師の価値観が現れる。

相談者の価値観と合致すれば喜ばれるでしょうが、違えば怒られるかもしれません。

 

ジェンダーバイアスあり、家族原理主義あり、いじめっ子よりいじめられっ子を責める人あり・・・ええ、そもそも神様という概念は人間が創ったものですから。

 

自分の頭の中にあるもの以外は出てこない。

 

スマホのない時代の占い師が、どんなに未来を予言できてもそれを「スマホ」とは言えないということです。

 

わたしは、視えたことをひっそりと物語の中に隠してある民話や、児童文学が好きです。その中には、悪い魔女が出てきて、主人公の子どもを脅したりするのですが、その呪いは敗れます。

今の日本には悪い魔女がたくさん、無自覚に生まれてしまったのかもしれませんね。

 

今は、生きる力になるスピリチュアルしか取り入れないことにしています。

「成長させてやる」的な話はいらないです。

何様やねんって思います

親でもないのに、親でも嫌なのにね。

 

わたしは、お箸の使い方も教わっていませんでした。

自分で矯正しました。

それぐらい、親は何も教えてくれない存在でした。

わたしにとって、妖精や魔法使い、不思議なものたちが友達であり先生であり、生きる知恵を教えてくれました。

今でも、心の中で一緒に育っています。

わたしには泣いてる暇も与えられなかったし、弱気になることもできなかったので、先の見えない毎日を占いで乗り切るのは、生きる知恵のひとつでした。

それを依存だのなんだの言われたくないんだな、これが(笑)

 

自分を安心させる毛布のような存在が私のスピリチュアルです。

決して呪いであってはならない。

 

呪いとして私に使用した人たちとは縁を切りました

 

たった一人でこの世界を生き抜かなければならない人たちの

暖かい毛布でありますように。

スピリチュアルが呪いになりませんように。

 

良質のものを手にすることができますように。

 

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ニューヨーク公共図書館

http://moviola.jp/nypl/aboutthefilm.html

 


映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』予告編

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今日はこれを見てきました。

三時間越えの作品です。

 

アメリカの図書館はとても素晴らしいということを

知ってはいたものの

「理想がここに存在した」という驚きと、どうしてこれが当たり前にならないのか、日本でできないのかという想いに駆られます。

 

一日を追っているのではなく、事件が起きるのでもありません。

 

そこで行われている(おそらく無料の)作家の講演会、大学並みの講義、収集している絵画の数々、音楽イベント、地域の人たちとの熱量のある交流などが描かれます。

 

日本のドキュメンタリーと違い、

「この講演会は素晴らしかったです」とか「この図書館があってよかったです」というような「感想」は全くない。

見ている私には、「講義の一部を見せていただいている」「こんなものを映画で見せてもらえるなんて贅沢」と思うほどの内容。

こんな上質のものを市民に提供している図書館があるニューヨーク最高だな、と思います。

 

会議の様子も映っていますが、日本とはまるで議論のやり方が違う。

わたしは、最近ツイッターで「日本語」と向き合っている方の文章を読ませていただいているのですが、やはり、この議論が日本でできないのは、「日本語の問題」でもあるのだなあと思いながら見ておりました。

 

役所の、上からの方針に従うだけの日本の図書館とは違い

役所と対等に渡り合っている様子がうかがえます。

「どうすれば役所から予算を引き出せるか、どう戦略的にふるまえばいいか」「政治家にどう言えば効果的に伝わるか」と。

 

そして、働く人も増やし、関わる人を増やし、毎日前進している。

 

今関わっている図書館とつい比べてしまい、悲しくなったのは、私だけではないはずです。

 

本がオートマティックに運ばれて、勝手に振り分けられる様子なども見ましたし、働いている人は、単純作業であれば、音楽をイヤホンで聴きながらしているし、作業服なんて着てない。会議の場面でも半数は女性。

服装も髪型も髪の色も装飾品も、何もかもが自由で、知的。

知性があるということは、こういう自由を当たり前に繰り広げることであって、何かを縛ることではないというのが、よくわかります。

 

悪名高い派遣会社のあの制服ってもう何周遅れてるんだろうと思うよね。。

 

図書館界の人だけでなく、誰もが見たほうがいいと思う。

図書館に関係ないことも学べますよ。

っていうか、それこそが図書館ですけれども。

 

働くということ、学ぶということ、支援するということ、議論のやり方・・・

日本がどうしてこれを学べなかったのか。

 

アメリカというと、成功哲学やセレブのイメージもありますが

一方で、こうした理念を通している人たちがいる。

アメリカは奥が深いです。

 

図書館の職員というのは、黒子なんです。

自分が目立って、自分が褒められたいと思ってたら間違えます。

 

また、派遣業者は、人を動かすことばかり考えていて、図書館の理念とかどうでもいいですしね。

 

この映画を見て、少しでも図書館について考えてくれる人が増えることを

私は祈りたいです。

 

ほんまに、ノートとペンをもってもう一回見たい映画です。ゆっくりとね。

移り変わるもの

雲が好きだ。

イケメンも好きだけど、空を見飽きない。

 

記憶のない頃から、田んぼの真ん中にほったらかしにされて

雲ばかり見ていたのだろう。

空は母親代わりだった。

懐かしく温かい。

 

雲が次々と形を変える様を見ているだけで

一日が過ぎればいいのにと思う。

 

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だから、わたしは空の写真ばかり撮ってる。

 

昨日私は梅田にいた。

天神祭りの本宮で

浴衣姿の女性をちらほら見かけた。

 

みな、桜橋駅に向かう途中で

環状線のホームはいっぱいだった。

 

わたしはいつもの帰り道を避け

遠回りをしたので

いくぶん余裕があった。

 

いつもなら、家で天神祭りの花火の映像を見ているところだ。

 

なぜか大阪にいたかった。

 

天神祭りの夜に大阪にいる。それがなんとなく特別なように思えた。

 

結局、梅田のビルの中は、花火の音も聴こえないし

花火の欠片も見えなかった。

お腹がいっぱいになって眠くなって帰った。

 

私がこの、大阪駅を通過して通勤しているのは

空に漂う雲と同じ、人の流れを見たいからだと思う。

動いている、美しいもの。

職場の近所に住んでいたら、決して目にすることのない人たち、景色がある。

 

私が動く、動くものを見る。

それが私の人生なんだなあと、半分を過ぎて思う。

 

小さい頃に住んでいた家は、今はなく

結婚してからも3度住まいを変わった。

故郷はない。

変わらないものは、何もない。

 

立ち止まらずに歩いていきたい。

 

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どんなことも花火

 

さっき。花火が見えた。

 

二年前は、ベランダで花火を鑑賞できる家にいた

 

ここに引っ越してきて、家から花火が見えるとは思わなかった。

 

 

7月に入って、事件やら選挙やら何やらが立て続けに起きている。

元同僚の訃報も入ってきた。

 

わたしは生きてて、ストレスフルな日もあれば、

心温まる瞬間もある。

 

責任ある仕事に就いて、必死で仕事をしていると

私を気にかけてくれる人が増えた。

日常は知らないのに、慰めてくれたり、励ましてくれたり。

だからまだ、頑張れる。

 

誠実に人のために仕事をしていたら

心を開いてくれる。

一年がかりで親しくなった人もいる。

お金にはならないけれど、心の財産をたくさん築いている。

 

ふらふらになりながら電車に乗る。

 

家に帰ると作り置きしておいた美味しいものが待っている。

 

 

いらいらせずに家で過ごせることの幸せを思う。

 

色んな人が色んなことを言うてる。

私には私の考えがある。

どうしたってわかりあえないだろうと思ってるし

でも、黙っていても仕方がないんじゃないかな。

 

誰かにヒットすればいいんだ。

世界中、たった一人だけでも、誰かの心に響けばいい。

 

明日がいい日でありますように。

 

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シンパを持たないということ

蒸し暑くて、子ども達が夏休みに入っているなんて思えない天気。

頭重くないですか。

 

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涼しい画像貼っとく。

 

 

ある人に「権力者に対しての気持ちが過剰」みたいなことを言われてから

自分の中にあるのは、ほんとにそうなんだろうかと疑って確認してきた。

 

で。よくよく自分の行動を見ていたら、「権力者に対する問題」ではなかったのね。

それは「心の境界線を越えようとする人たちとの闘い」だったわけ。

 

権力者ってさ、クライアントとか、自分のシンパに対して

偉そうにふるまう。

ため口が普通になったり、何を言っても批判されないテイで話したりするよね。

お前の家族でも友達でもねえわ、って思うんだけど、そうしてくるよね、勝手に。

んで、従わないと「変な人」「かわいそうな人」というレッテルを貼るんだわ。

それが気持ち悪いと思ってた。

だから、敢えて「意見違う人もいるんですけどね」という態度を取ろうとするんだなあって。

 

母親から、過剰に侵入されてきた私にとって、安心できるのは、きちんと境界線を引いてくれる人。そして、境界線を引いてるからって、冷たくしない人。

外国ではそういうの、普通じゃないの?海外文学では普通だけどな。

 

家族であろうが恋人であろうが、自分と他人の境界線はきっちり守る。

それが私の気持ちのいい距離。

 

けれど、往々にしてスピリチュアルにハマる人たちってのは

親子関係に問題があって、クライアントと親子になりたがったりする。

自分が欲しかった関係性をそこで構築しようとする。

巻き込んでいく。

そして、そもそも、そういう親子関係に慣れている昔の子ども達がわんさか寄っていく。親に精神的に頼るの、楽だもんな。

 

わたしは、自分に問題があるとずっと思っていた。

だけど。今の時点でわかっていることは、私に対して愛情を注いでくれた父親や祖父母がいて、その愛は、私をずっと守っているということだ。

だから、誰かとつるまなくていいし、シンパを必要としていない。

いちいち、クライアントをお金や能力で集めて、家族ごっこをする必要がない。

 

家族ごっこに付き合いたいとも思わない。

 

職場でも家族ごっこをしている人がいて、「それ、仕事する姿勢ちゃうやろ」と突っ込みたくなるのを我慢していたらストレスになった(笑)

 

仕事は仕事やねん。

家族的心理状態はいらんねん。

 

家族状態を作らなくても、親しくなることはできるし、尊敬されることも可能だよ。

 

シンパを作る人たちが、私を見て「かわいそう」「寂しそう」と言ってるのは知ってる。でも、本当に寂しいのは、周りに自分のシンパを集めたい人のほうじゃないのかな。

 

寂しいという気持ちに正直なのだと思うけど、でもそれは、ちょっと違うね。

境界線を引いていれば、今の芸能界みたいな「家族的経営だから、泣いたら許しちゃう」「従わない奴は出て行け」「親的な存在の社長や上の人間はいつも許される」にはならないし、いい距離を保ったまま、いい関係性が築ける。

 

「家族」と「家族以外」を区別して、「家族として囲い込もうと必死になってパワハラしちゃう」のが正しい在り方かどうか。これからの日本に問われていることでもあるだろうと思う。

 

心の境界線を持てない人たちと関わるのはとてもしんどい。

 

批判されたのどうのってうるさいし、一対一で話もできない。

 

シンパを引き連れてる人と普通に話ができるとも思わない。

 

本気で対等であるのなら、その集団の中で「それ違うで」「やめときや」と、誰にでも言えるはずだし、どちらかだけが一方的に悪者になるような集団を作らないだろうと私は思うよ。

 

テレビで話題になってる会社を見るたびに、この型の小さいのが、あれだったりこれだったりするよな~と思う。本人たちは気づいていないだろうが、あの会社の社長的なことをやってる、めちゃくちゃ無意識に。

 

男性の中で、異端児として居続けた人たちの

「シンパを作らないあり方」が、わたしはとても好きだけど

女性でそういう人は見当たらない。

難しいのかなあ。

石井ゆかりさんぐらいかな。

 

超能力の秋山さんのYouTube見たらわかるけど

物腰柔らかで、誰に対しても失礼にならないよう、言葉を選んでいる。

山本太郎さんも、シンパがいるように見えるけど、彼は一人だよね。

周りに精神的に頼ってない。

もし、明日一人になっても俺はやる。みたいなところが見える。

 

ブレーン抱えていつもヨイショされていたい人たちとは違うなあと思って見てる。

私生活は知らんけど(笑)

 

そんなわけで

ファミリー的集団が苦手で、という話でした。

 

親子だったら親離れ子離れは当然あるんだけど、日本の家族的なグループは「私を尊敬したままでいて」状態だからな~。子離れも何もしないよね。

 

境界線を保ったまま、温かい関係性をつくりたいね。

その延長線上に、公共性とか福祉があると思うよ。

許すということ

昨晩は、大きな蛾が部屋を舞っていて

息子の部屋にもGが出たらしく

朝から掃除しております。

 

ライブの疲れで起き上がれず(笑)

前回もそうだったけど、体力ないな。

 

私が人に対して厳しいと思うのは

偉そうにする人たちが、自分の発言に対して無責任であったり

調べもせずに断定したりするところだと思う。

 

それは、私の言うことを信じてくれなかった大人たちへの復讐なんだろうなあと思う。

 

間違ったことを言う人ほど、偉そうだし、言ってる時の顔が醜いと、私には見える。

それこそが脳のバグだと思うけれど、仕方ない。

 

十年前ぐらいだったか。ある人にプンスカしてたら

「その人はまだ、道の途中です。許してあげなさい」というメッセージがきた。

だってその「ある人」って霊能者だったんだよ(笑)

そっか、能力者であっても、道の途中で偉そうなことを言うんだなということを学んだ。

 

誰もそんな簡単に、その人に騙されたりしない。

たった一人の人に傾倒しているふりをしたって、影響されてない。

人間舐めんな、って感じかな。

 

よく「私の言うことを聞かない人は結果が出ません」とか書いてる人がいるけど

そりゃそうなんだよ。そんな簡単に騙されてたら、人間ロボットだよ。

一人の人間の発言なんてたかが知れてる。

 

そう思うと、少し楽になる。

 

聞いてるふりして何もしない人なんてこの世にごまんといる。

それぐらい、みんな、自分を譲らないのだから。

 

だから、私も好きなことを言うし書くし、それでいいんだろう。

 

今の若い人の思想は気に食わない。

アラフィフの「適当に流してしまえ」も嫌い。

だから、わたしは家事育児も元パートナーを巻き込んでやったし

「コーヒー!」と命令されて淹れたことなど一度もなかった。

相手の親が間違っていると思ったから、巻き込まれなかった。

そして、親ともきちんと弁護士立てたし

正直に離婚した。恋もして、自分がしたいことは飽きるまで追求した。

 

言うだけは嫌だ。行動しなきゃ。

そう思って生きてきた。

 

理屈を述べることなんて簡単だ。

わかったようなことを言うことも簡単だ。

だからこそ、わたしはどんな「世の中で間違ったこと」でも、自分の信念に従って「やる方向でがんばる」人が好き。

誰かを嘲笑したり、馬鹿にするのは違うよ。

 

私の後ろに道はできなくとも、わたしは前に進み続けるだろうな。

 

若い人たちの「支配者思考」(そこそこ生かしてもらってるんだから今の政府も悪くないとか、総理も頑張ってるとか、会社の言い分わかるとか)を許せる日が来るのかわからないけどね。

それもこれも、いつかわかること、わからなくてもいいことだろうけど。

 

筋トレ筋トレ~(これこそ言うだけのわたしw)

ライブ行っても次の日、倒れない自分になりたい。

 

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ライブ最高といやいや期

私の命とも言える「コブクロツアー」に参戦してきました。

今回は、神様のプレゼントだったのか

右隣は椅子がなく、左隣は最後まで誰も来ない。

しかも、前に座っている人たちがちっとも立たないので

パワフルに立って目立ってきましたよ。

見やすかったし(≧◇≦)

 

途中、お二人の声がヤバいかも?と思う瞬間がありましたが

それでも、たくさん楽しませてくれて

アンコールではゲストも登場して

ライブファイナルにふさわしいものになりました。

 

ありがとう!コブクロ

 

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「あるがままでいること」「楽しむこと」にようやく自分に許可を出したところ。

 

そしたら、他人の声が煩わしくて仕方がない。

SNSの一部を断捨離しました。

 

どうでもいいことは見たくないし、いちいち心に引っかかるようなことを言う人とつながらなくていいんじゃない?ってことになりました。

 

前回、少し書いたのですが

わたし、昔から「いやいや」が過ぎるところがありまして。

どうも「言う通りにしなさい」が効かないですわ。

小学生の時は、まだ言語化できないことも、理論で説明できないこともあるじゃないですか。

父親の横暴とか、自分の体調が悪いのに強制されることとか。

んで、意味不明に泣いたり、「いやだ」とごねて、家族の計画を壊しにかかったりしいておりました。

 

そのたびに「お姉ちゃんはもう・・・」とあきれられたり叱られたりしてきました。

私自身は、本をけっこう読んでいましたし、自分の中に「間違っていない」という確信がありましたので、家族が「無理をしてでも同じ方向でいるべき」が理解できませんでした。

 

母親など常日頃、父親に文句ばかり言ってるくせに、文句を言いながらも従う姿勢を変えないのも不思議でした。

 

だから、「言わないで文句を溜める」「とにかく本の中に味方を探す」という半生になったようです。

 

家族それぞれに、正しさを持っていたのだろうと思うのですが

「従わせる」というやり方だけは、どうしても、今も、理解に苦しんでおります。

感情も理性もついていきませんし、従うことが習い性になっている人が、従わない人を批判するのもわかりません。

 

まあ、そういうわけで、本を読まざるを得なかったわけです。

 

 

直観で「従いたくない」という気持ちが沸いた時「どう反論するか」を必死で考えるわけですよ。

「親の言うことだから聞いておけばいい」「先生が言うことだからそれでいいのだろう」と何一つ考えずに従う人間が善とされる社会ですからね。

 

その善と、その正義をふりまわすことで

「意味も分からず従う人たち」を育て上げている。

んで、デモや反対運動を「かっこ悪い」「文句ばっかり言ってる人」「何を正義ぶってるんだ」と揶揄し、近寄らないようにする。

 

そういうのが、マジ気持ち悪いんですけど。

 

黙って従うことを、大人になって「愛」と言い換えた人たちも多数いらっしゃいます。

 

スピの弊害ってそれだと思う。

 

自分の正義と善を「愛」と呼べるような立場、資格を持てた。やったね!みたいに嬉しそうに「愛」を説いて回る。それ、愛じゃないから(笑)

 

私のいやいや期はきっとずっと続きます。

違和感を持たない社会にはならない。一生。

けれど。その違和感を持ち続けることが、私にとって必要なことなのです。

 

有名で高名な宗教家たちも、同じだと思うんですよ。

決して生きている社会を肯定していない。幸せでたまりません、なんて言ってない。

だって、見えてるんだもんね。

 

だからこそ、平和や愛について話し、瞑想を勧めてる。

 

もし、平和で愛のある世界が叶っていたら、それについて話す必要なんてない。

 

自分が変われば、そういう世界が現れますなんて、ほんまか?

 

ってことで。

いやいや期を生きる私でした。

 

めんどくさいやつです。