風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

みっともなくていい

こんばんは

 

あまりに寒かったので、家に帰って一時間、コートを脱がなかったです。

着たままテレビを見ておやつを食べてました。

 

イチロー選手の引退試合を偶然テレビをつけたら観てしまいまして

改めてイチロー選手の面白さが見えてきたところです。

インタビューを一部だけ見ましたけれど

「人望がないので監督はできない」と自分でおっしゃってたのが印象に残りました。

わかる~~~~イチローは野球が好きであそこまで行った人。

チームのためとか、仲良くなってうまくやるだとか、そういうことで生きてきた人ではないんだなあ。うまく書けないけど、アスリートなんだと思いました。

野球を哲学にして生きてこられた人だと私は思いましたよ。

 

そしてそして~。

 

今日は社交ダンスのレッスンでした。

何度もやめようと思うぐらい、コンプレックスを突き付けられるきつい場所。

先生とのレッスンはいいけれど

そこそこダンスの上手な人たちも続々と来られるし

場所が場所だけに、きれいなお姉さんたち(年齢問わず)がセレブっぽく、また、ダンスの衣装を着て踊ってる。

私はいつも、仕事帰りで、一応スカートを履くけど、そんな薄着をして仕事できない上に、着替えを入れる荷物など持てない。

 

そんなわけで、行くだけで凹みます。

 

踊っている時は楽しいからと思って続けていたのです。

 

しかし、今日なんとなくわかっちゃったね。

わたしはこれを越えたいと思ってるって。

すごくみっともない姿を晒してる。若い頃なら二度とやらないと思う。

それでもいいのだと思ってやってるんだなあ・・・。

 

どう見られるかなんてもはや問題ではなくて

本当に自分だけのためにレッスンしてる気がする。

 

そして、やっぱり行動と心の癖はリンクしていて

先生から「ダンスを通じて(おっちょこちょいの部分・・・とは誰も言ってないけどね)何が起こっても落ち着いていられることを目指しましょう」と言われ、

「ば、ばれてる・・・」と驚愕。

 

ちょっとした動きに心の癖がばっちり現れてるのね。

 

それは、認知行動療法を知った時、そして、アレクサンダーテクニークのレッスンをした時からわかってたことだけど

心の癖を心で治すよりも、こうして、動きで「可視化して」「楽しく」変えていけたら何より自分が楽ですよ。

 

自分を責めなくて済みます。

 

「相手に任せる」「相手の視野から消えない」「エネルギーを感じて動く」

「フォローはしても、相手にすべてを合わせない」

等々

恋愛にも効くアドバイスを毎回いただきます。

 

レッスンは、閉鎖空間ではなく、次のレッスンを待つ人や、グループレッスンだけ受けに来る人などがたくさん集まってきていて、まさに公開レッスンなんですよ。

恥かしいとか言ってられない。

とても鍛えられています。

自分自身に集中することに必死にならないとやってられない。

 

「人の目がありながら、人の目を気にしない」というメンタルが必須です。

 

みっともないとか、言ってられないの。

何でもいいから踊るの。

それしかないの。

 

なぜなら、自分のために踊ってるから。

誰かに評価されるためじゃない。綺麗と言ってもらうためでもない。

そこがブレなければ大丈夫。

人生、すべて同じだ思ったことでした。

 

「ありのままのカッコ悪い自分」を他者に晒し続けて「それでもいい」と思えるように。だってさ、みんな、どこかしらカッコつけてるんだよね。得意なとこだけで生きてるよね。

私は、今やっと、みっともない自分と出会い、向き合えるようになった。

それはとても愛しいこと。

それでも否定されないし、向上する部分も間違いなくあるし。

 

過去の自分を抱きしめてあげられるのは、こうして、自分が嫌いだった自分に出会えるよう動いたから。出会える自分になることだと思う。行動だけが自分を救う。

 

明日は不登校カフェです。

 

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世界は広いんだぜ

こんばんは。

 

日常が面白すぎる毎日です。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

それにしても寒いよね。

 

日々、ますます混とんとしている私の毎日。

昨日はポケモンで歩き回り、ラーメンとスイーツを食べ

今日は疲れて3時間昼寝しましたw

 

好きなことしかしてないです!

お洋服が欲しくなってきたので、外食を改めてお弁当にしてみたり

急に人と会ったり。計画性のない人生が面白い。

 

さて。

 

改めて世界を眺めてみると、誰もが自分の世界を創ろうとしている。

いいも悪いもなくて、ただ自分が育った環境の再現だったり、そこからの反面教師だったりするけれど、ほぼ例外なく、その人の世界はその人の世界観のみでできていて、新しくもなければ、珍しくもなければ、善良なものでもない。

 

特にスピリチュアルなことをやっている人は、

自分の成育歴を超えているようなことを言ってはいるけれど

その人の周囲を見ると「自分の家庭を再現したのだ」とわかる。

少しも超えてなくて、周囲をコイントロールする環境を整えただけにしか見えない。

超えてるつもりだから自覚ないよね。

だから、そういう人の世界の中に入ると抜けられないんだよ。

 

洗脳ってたぶんそゆこと。

付き合う人を選ばなければいけないというのは、

その人の世界観に取り込まれたいか否かの問題だと思う。

 

めちゃくちゃ巧みに誘い込んで自分の駒にしちゃうからな。

なぜか感謝される構造も創る巧妙さで。

 

「この人しかいない」「ずっと付き合っていかなければいけない」と思わされたら、相手の言動に自分がびくびくすることになる。

そうじゃなくてさ。

「私が誰と付き合おうが誰に何を言おうが、相手が思うことに対する責任はない」と知ることが大事。

 

「ひどいことを言ってくる人とどう付き合うか」にあくせくするより、切ったほうが早い。いちいち、その他人の心理に構う必要はない。

そのエネルギーは別の所に使うべきなんじゃないかな。

 

わたしは、好き勝手言ってるけど、「そういうとこが好き」と言われるし、絶対に嫌わない人がいることもわかったので、今はくよくよすることが減って、上記に書いたような生活をしている。

 

嫌ってくる人のためにエネルギーを使うのはもったいないのよ。

 

で。どうして、そんなに他人のために「心理を学ぼう」としたり、気を遣ってでも付き合おうとするのかというと、経験数が足りないからです。

人の数だけ乳酸菌があるので(笑)

もっともっとたくさんの人に出会えばいい。

ただの一人の人間としてね。

 

私はまるで惑星探査機のように、色んな星を訪ねてるところ、というように。

この星はこんな風景なんだなあ~こんな質感なんだな~面白いな~

で、滞在するかすぐに飛び立つかを決めるわけ。

 

私には自分の星(体)があるから、別の星が合わなくても還ればいいしね。

 

理解してあげようとか

その星に同化しなくちゃとか

そういうの、いらない。

 

自分と近しいルールがあり、自分と近しい遊びができて、拒否されなくて居心地のいい星が見つかったらしばしそこで、遊べばいいの。

 

しょうもないことをぐちゃぐちゃ言ってくる星とは、何万光年でも離れればいい。

 

そうやって宇宙はできている。

宇宙の秩序は、あなたがどこにいようが、誰といようが、崩れないんだよ。

 

いちいち「親友だから」「同僚だから」「偉い人っぽいから」「わかってる人みたいだから」「彼氏だから」「子どもだから」と理屈をつけて一緒にいようとしなくてもいいよ。

 

先日、ある会合に出席したのだけれど

そこの人たちが、あまりにも学歴主義にまみれてて、世界が狭くてびっくりしたことがありました。そんなことが悩みになるんだね~っていう・・・。

人生の深み、プリーズ!

 

まだまだ知らない世界が広がってますよ。

 

最後は「わたしはどうしたい?」に集約されるわけで。

どういう世界で生きていきたいかを選ぶのはわたしです。

誰の世界も平等だから、「こっちのほうがいいのに」「どうしてこれを選ばないんだ」みたいな脅しが溢れてるけど、無視してよろしくてよ。

脅されて選ぶほど怖いことはないのでね。

 

自分だけの正解を模索しようね。

誰にも、他人の人生を変える力などないんだよ。

「変えられたい」「変えられちゃう」という意識がそこに取り込まれるだけで

みな、無力なのは同じ。誰にどう影響されたいかを選べばいい。

 

誰もあなたになることはできない。

あなたが自分で世界を開拓するだけでいい。

人の意見は参考程度にすればいい。

あなたの生きてきた歴史のほうがずっと尊重されるべきなのよ。

人生↑↑で!自分の星を光らせて生きてこ!

 

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世界は広いんだぜ

こんばんは。

 

日常が面白すぎる毎日です。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 

それにしても寒いよね。

 

日々、ますます混とんとしている私の毎日。

昨日はポケモンで歩き回り、ラーメンとスイーツを食べ

今日は疲れて3時間昼寝しましたw

 

好きなことしかしてないです!

お洋服が欲しくなってきたので、外食を改めてお弁当にしてみたり

急に人と会ったり。計画性のない人生が面白い。

 

さて。

 

改めて世界を眺めてみると、誰もが自分の世界を創ろうとしている。

いいも悪いもなくて、ただ自分が育った環境の再現だったり、そこからの反面教師だったりするけれど、ほぼ例外なく、その人の世界はその人の世界観のみでできていて、新しくもなければ、珍しくもなければ、善良なものでもない。

 

特にスピリチュアルなことをやっている人は、

自分の成育歴を超えているようなことを言ってはいるけれど

その人の周囲を見ると「自分の家庭を再現したのだ」とわかる。

少しも超えてなくて、周囲をコイントロールする環境を整えただけにしか見えない。

超えてるつもりだから自覚ないよね。

だから、そういう人の世界の中に入ると抜けられないんだよ。

 

洗脳ってたぶんそゆこと。

付き合う人を選ばなければいけないというのは、

その人の世界観に取り込まれたいか否かの問題だと思う。

 

めちゃくちゃ巧みに誘い込んで自分の駒にしちゃうからな。

なぜか感謝される構造も創る巧妙さで。

 

「この人しかいない」「ずっと付き合っていかなければいけない」と思わされたら、相手の言動に自分がびくびくすることになる。

そうじゃなくてさ。

「私が誰と付き合おうが誰に何を言おうが、相手が思うことに対する責任はない」と知ることが大事。

 

「ひどいことを言ってくる人とどう付き合うか」にあくせくするより、切ったほうが早い。いちいち、その他人の心理に構う必要はない。

そのエネルギーは別の所に使うべきなんじゃないかな。

 

わたしは、好き勝手言ってるけど、「そういうとこが好き」と言われるし、絶対に嫌わない人がいることもわかったので、今はくよくよすることが減って、上記に書いたような生活をしている。

 

嫌ってくる人のためにエネルギーを使うのはもったいないのよ。

 

で。どうして、そんなに他人のために「心理を学ぼう」としたり、気を遣ってでも付き合おうとするのかというと、経験数が足りないからです。

人の数だけ乳酸菌があるので(笑)

もっともっとたくさんの人に出会えばいい。

ただの一人の人間としてね。

 

私はまるで惑星探査機のように、色んな星を訪ねてるところ、というように。

この星はこんな風景なんだなあ~こんな質感なんだな~面白いな~

で、滞在するかすぐに飛び立つかを決めるわけ。

 

私には自分の星(体)があるから、別の星が合わなくても還ればいいしね。

 

理解してあげようとか

その星に同化しなくちゃとか

そういうの、いらない。

 

自分と近しいルールがあり、自分と近しい遊びができて、拒否されなくて居心地のいい星が見つかったらしばしそこで、遊べばいいの。

 

しょうもないことをぐちゃぐちゃ言ってくる星とは、何万光年でも離れればいい。

 

そうやって宇宙はできている。

宇宙の秩序は、あなたがどこにいようが、誰といようが、崩れないんだよ。

 

いちいち「親友だから」「同僚だから」「偉い人っぽいから」「わかってる人みたいだから」「彼氏だから」「子どもだから」と理屈をつけて一緒にいようとしなくてもいいよ。

 

先日、ある会合に出席したのだけれど

そこの人たちが、あまりにも学歴主義にまみれてて、世界が狭くてびっくりしたことがありました。そんなことが悩みになるんだね~っていう・・・。

人生の深み、プリーズ!

 

まだまだ知らない世界が広がってますよ。

 

最後は「わたしはどうしたい?」に集約されるわけで。

どういう世界で生きていきたいかを選ぶのはわたしです。

誰の世界も平等だから、「こっちのほうがいいのに」「どうしてこれを選ばないんだ」みたいな脅しが溢れてるけど、無視してよろしくてよ。

脅されて選ぶほど怖いことはないのでね。

 

自分だけの正解を模索しようね。

誰にも、他人の人生を変える力などないんだよ。

「変えられたい」「変えられちゃう」という意識がそこに取り込まれるだけで

みな、無力なのは同じ。誰にどう影響されたいかを選べばいい。

 

誰もあなたになることはできない。

あなたが自分で世界を開拓するだけでいい。

人の意見は参考程度にすればいい。

あなたの生きてきた歴史のほうがずっと尊重されるべきなのよ。

人生↑↑で!自分の星を光らせて生きてこ!

 

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比べない

社交ダンスのスランプを脱したようで

楽しかった頃の気持ちが戻ってきました。

何事も一直線にいかないものですね。

ということがわかると、少し落ち込んだり凹んだくらいで

何かを決めつけなくなります。

人は、悪い方向に考え出すと、全部がそうなってしまい

そうなると、周囲の人からも悪しきアドバイスしかもらえなくなります。

 

凹んだ時に自分を保つことが一番大事。

意志の力と理性によって保たれるので、凹んだ時は、「そこに留まるだけ」に集中すると抜けるのも早いかもです。

 

多くの人たちが何かを想う311がやってきます。

 

311は、私の、間接的な離婚のきっかけとなりました。

 

人生を変えました。

 

そうでなくとも、私たちは、あらゆる局面で変化を求められます。

社交ダンスに通い始めたことで、わたしは、自分のコンプレックスを突き付けられました。そして、自分の暗い奥底まで潜って、ようやく「欠点が欠点でなくなり」ました。

今は「自分最高!」です。

自分を愛するでもなく、思い込むのでもなく、いやマジ最高だし!と思ってます。

 

美人枠やキレイ枠、いい女枠を、女性たちは争っているように見えます。

どうしたら綺麗になれるか、どうしたらいい女になれるか、見られるか。

結婚してその競争から降りられてほっとしている女性もいることでしょう。

しかし、競争に降りても、コンプレックスは残っている。

 

今の私には、競争相手はいません。「わたし」という枠がひとつしかないからです。

わたしより、私に勝てる相手はいない。

だから、自分を輝かせる方法をいつもワクワクしながら考えるだけです。

 

私より、私の個性に勝てる人はいない。自分が自分の最高峰です。

 

それが腑に落ちた時、怖さが一つ減りました。

 

自分の好きなように自分を装っていればいい。

 

さて。

わたしは美術が大好きです。

小学校の頃から、美術の点数は散々でした。教師には目の端にもかからない子どもでした。手作業が下手で、なにひとつうまくできたことはありませんでした。

けれど、やっと思い出したんです。

おばあちゃんの家にかかっていたカレンダーは、モネなどの絵画が描かれていました。

家には美術全集があり、ずっと眺めていました。

母は、美術をやりたかったのです、きっと。(母は一言も言わないけれど)

だからこそ、子ども達には美術を勧めなかった。無意識に。

そして、自分ができなかった音楽をやらせた。

 

母の唯一の自慢が美術だったのだと思います。

おばあちゃんが大切にしてたのは、母が作った彫刻や母が描いたものでした。

だからこそ、自分の子ども達には「美術の美」の字も言わせなかったんです。

 

それでもわたしは、大学生になったころから、なぜか絵本の絵が気になり、絵本美術館を訪ねたり、大原美術館に何度も足を運んだりしています。

なのに「美術が好きだ」とは一度も思わなかった。そう思うことが禁止されていたかのように、その言葉自体が心に浮かぶことがなかったのです。

 

親が思い込ませた私の牢獄とは、もしかしたら、このことかも?と思い始めています。

 

封印を解いた先に見える世界は、色鮮やかでいきいきとした世界。

私の脳が私の世界を創造していくのです。

誰かの世界で遊ぶのではなくて。

そしたら、何一つ比べることなく自分自身でいられる。

 

明日は何を生み出すのかな。壊れて、平地になって、また生み出して。

人生はその繰り返し。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

弱さとは

雨の日曜日。

ひなまつり。

 

ほっこりとマラソンなど見ながら過ごしております。

 

先日、居場所づくりをされている人たちが集まっているところに行きました。

私も一応、不登校カフェをやっていますし、将来何らかの形で場所を創りたいという気持ちがあるからです。

 

とても表現が難しいのですが、居場所を作っている男性たちに共通する「弱さ」みたいなものを、私は感じます。

あ、私とは全然違うエネルギーなんだな、と。

先日その違いを、肌でうっかり(笑)感じてしまいました。

それで、ちょっと慌てています。

 

弱い男性を周囲で支える女性たちがいて、それで成り立っていることがある。

自由な生き方や弱さを活かして何かをしている男性の陰には、必ず女性がいる。

女性たちがその表舞台にいることはないんですが、間違いなく精神的な支えであることは間違いない。それって、なんだろう・・・みたいなもやもやなんですよね。

 

私のようなエネルギーが強いものがいると

なかなか訪れられない人もいるのだろうと思うし

けれど、弱い女性として存在しちゃうと、それこそ、「わたしがこの場を仕切っていいですか」みたいな女性が現れるのも知ってる。

私も男性に支えてもらって居場所を創りたい(笑)

それは違うものね。

 

私のエネルギーを緩和してくれている友達がいるからこそ

今の不登校カフェが成り立っているのだと改めて

友達に感謝の気持ちを抱いているところです。

 

男性は弱さがあると、上手に支えてくれる女性をゲットしちゃうんですけど

女性が弱いと、DV男性や、マウンティングの餌食になりがち。

その辺が難しい。

女性を支えてくれる男性の存在が待たれるところではあるけれど

そういう歴史がこれまでないから

なかなか男性の意識が「女性の活躍を支える喜び」にいかないんだろうなと

思っています。

 

やっぱり海外か!!!www

 

繊細なのは男性に限らないし、女性が苦しんでいる状況と男性の生きづらさはちょっと違うんだけど、その辺を汲み取る場所はまだない気がしていて。

だって、男性主催の場所だらけだもん。居場所が。

 

今、ボランティアで関わっているらいぶらりーは、主催は男性だけど仕切っているのは女性です。その采配のバランス感覚がとても素晴らしく、わたしにとって、今一番居心地がいい。

職場も女性館長がいるところ。そういえば、わたしは、女性上司がそばにいてくれるとうまくいくみたい。精神的に安定します。

 

仕事は男性性でやるから、どうしても、私にも女性の力が必要になる。

男性には私生活を守ってもらいたい。

 

今、男性がとても生きづらくて、それで、居場所やフリースクールの代表が男であることはとても意義があると思うけれど、会社に取り込まれない生き方はいいと思うけど、

それでは何かが欠けている気がして。

おそらく、主催をしている男性たちは気づきもしていないだろうけど

その「気づいていない男性的意識」の問題は根深いと思う。

 

弱い男性であることで、何か、この世の中の新しさの象徴であるように自覚しているのかもしれないけれど、あくまでも男は男なんだ、私から見て。

それは、女性の辛さに対しての実感を薄めてしまい、また「男が生きやすいだけ」の社会を創りたいに近づいていないかどうかという気持ちがわいてくる。

 

別に、批判するつもりもなくて、ただ、興味として観てるんだよ。

女性が生きやすくなると、それこそ弱い男性の恐れが表面化してきて、やんわりと「男性だって辛いんだ」みたいな風潮で、女性の強さが否定されがちになっていないかどうか。

 

つまり、男性優位社会のまま、弱い男性も生きていきたいという話だから

女性が男性並みに活躍することを望んでいるわけではないし、女性の生きやすさを考えてくれるわけでもなんだな、これが。

 

「人間の」とたぶん、言ってるけど、その「人間」ってさ、

「俺ら男」なんだし、「だって、女になったことないからわかんない」んだろうし。

 

女性が普通に、今の男性と同じような生き方ができる社会になった時

男性はどうなるのかというシミュレーションを、男性自身がしていない。

「俺らの優位性は(気づいてないから優位性と思ってないと思う)保ったままだよね」というい無意識があるから、ほんとにやっかい。

 

上手にエネルギー交換ができるペアになれるのかが、人類に課せられた課題なんじゃないかという壮大なことまで私は思ってしまう。

 

「男を活かすための女」という位置づけでいいのか?みたいなね。

結局、男としてマウンティグをされてる人が、辛くても、下には女がいるってことになるとそれはマジでしんどいからなあ。

 

弱いけど、女より上、というその意識。

強い男は女を簡単に手に入れられるけど、俺らはそれができない、とか

最終的にそこにい行っちゃうやつ。

 

男が内面を言語化した時、自分自身の「女より上でいたい」「女には勝ちたい」「女を手に入れることで自分を大きく見せたい」というような本心が果たして自分で認められるのかどうかというのは、大きな問題じゃないかなと思います。

弱い男性だからって、女性を理解できるかというと、そうではないし(元夫で検証済みw)逆に、今の社会で強く生きている男性が女性にエールを送ったり、家事と仕事を両立できたりするケースもあると思うから、そこがとても難しい。

差別反対を叫ぶ男性が、女性を道具にすることはよくあることだから。

男が反対する差別って結局「男社会の中の話」として仮定されてるだけで、その中に女性差別は含まれていないんよね。それやると、自分が活動できない(私生活を支えてもらえない)という矛盾が生じるんだろうね。

 

↑に描いてある「男像」は、あくまでも一般的な話で

「そうじゃないよ」と思ってる男性もいるかもしれないけど

「そうじゃない」ってどういうことだよ?を知りたい。

 

女性の「弱さ」とそこから立ち直るのに、男性が協力してくれないことについて

語り合いたいよね。

 

弱い男性ほどマリアを求める。それは正当化される。

 

弱い女性が男性を求めると「依存」「メンヘラ」と呼ばれる。

 

 

 

不登校カフェでつくったお雛様

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孤高の存在で

今日は炊き立てのご飯があまりにもおいしくて

お漬物と一緒に食べ過ぎてしまいました。

うちの鉄鍋は最強です。ヤバいです。

 

先日、面白いセッションを受けました。

箱庭みたいに私と子どもたちを配置するのですが

どうも普通ではなかったらしいです(笑)

 

子どもを私の後ろに並べなかった。

はい、守ってないんですね!解説を聞いて爆笑しました。

でも、心はつながっていると思ってる。

信頼している。そして、私のために犠牲になって欲しいとも思っておらず

だけど、私にとって息子たちは、戦う姫を守る騎士たちなのでした。

 

私も戦うので(*^^)v当然、息子を盾にしていない。

 

自分で並べたにも関わらず、気づかなかった、気づこうとしなかった

自分の心象風景がそこにありました。

 

自分の立ち位置、あり方を再確認した次第です。

 

つまり、「わたしは、離れている人とつながっている」という感覚がある、ということ。べたべたと日常を一緒に過ごすよりも深いつながりを既に得ているということです。

 

ある人から「あなたは、孤高ではあるけれど、孤独ではないよね」と言われました。

その意味がすっとわかりました。

離れていてもつながっている。だから、決して孤独ではないのです。ひとりで生きているように見えても。

 

今の職場で一年半過ごしていますが、電話しあったり、日常的に会う人はいません。

だけど、二、三カ月に一度、大愚痴大会を開く友達や、「わたし、上司に意見しちゃった」と私だけにメールをくれる年下の女性がいます。

いつの間にか、私を信頼してくれる人たちが数人できました。

 

不登校カフェも一ヶ月に一度ですが、絆は深まっています。

ずっと会えない人もいるけれど、一度信頼を築いてしまえば、私の場合、それは離れていても持続します。

 

自分自身はひっくり返りそうになるぐらい、吐き気がしそうなぐらい、誰かに恨まれたり、凹んだり、泣いたりするんですけども(笑)

その時に側に誰もいないことのほうが多いんですけれど(笑)

私は決して一人ではない。

心で繋がっている人がいる。

今日、それがもう、雷に打たれたようにわかってしまい、♪もう恋なんてしないなんて~言わないよ絶対~♪みたいな気分になりました(謎)

 

そっか、だからわたしは、現実にべたべたする友達を求めないで済んだんだ。

家族を解散してもちっとも不安にならないんだ。

わたしってひとりぼっち~なんて勝手に悲劇のヒロインやってたけど

嘘でした、テヘペロ、みたいな感じです。

実家と縁を切っていても、なんていうかなあ、その道の人たちが勝手に想像するような「親を許していないあなた」でもないし「親と仲直りできなくて可哀想なあなた」でもないんだなあ。

25年間親兄弟をどっぷりやってきて、あの人たちのことが手に取るようにわかるんだから、もうそれで充分じゃない?お互いに干渉しあわないで幸せに生きていればいいんじゃない?と思える。

 

わたしはちっとも寂しくないし、母親としゃべりたいとも思わない。

認めてもらうの云々もどうでもいい。

だって、わたしは、母親が認めた娘なんだから。

 

そういう感覚って、どこにも書いてないし出てこないよね。わからないよね。

 

やたらと上司や、やっかみにまみれた女性から叩かれる私なんですが

それでも孤立しないってのは、不思議だし、それはそれでスゴイと思う。

まあ、わたしは傷だらけになるんですけどねw

 

強く見せたい人にしてみれば、私だけが屈服しないから嫌なのだと思います。

「優しくない」「素直じゃない」とディスれば大抵の人たちは落ちる。屈服してくれる。でも、わたしはそれをしない。

優しいって何?素直って何?それ、おいしいの?

 

優しくなくても素直じゃなくても、信頼と信用は間違いなくあるんですよ。

ここに。

 

 

さて。明日も頑張りましょう。

 

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コンプレックスの扱い方

こんばんは。

 

不思議なことがありました。

先日から、自分があまりにも容姿コンプレックスに囚われていることがわかり

どうしたものかと思っていましたら

私の顔を分析して教えてくれる方に出会いました。

全くの偶然で。

 

今まで悩んでいたことが崩壊しました(笑)

ただ、「今のままでいい」のではなくて、どこをどう変えていけばいいのか、そして、その変化を私はとても喜ばしいと思うだろうこともわかりました。

 

コンプレックスを認める、ということを、私は「そのままにしておく」こととはとらえていません。

 

大学生の頃、めちゃくちゃ太ってしまった時期がありました。

あまりにも悲しくて、一気にダイエットモードに入り、一年間で10キロ痩せました。

今は誰も太っているなんて言わないけれど、実家ではずっとブタ扱いだったです。

 

わたしは「そのままでいい」とは思わなかったから、ダイエットして、自分自身が満足する自分になりました。どんな服でも着たい!という夢は叶いました。叶えました。

コンプレックスに気づくというのは、「なりたい自分がわかる」ということだと思うんです。これでは嫌だ、という叫び。

その叫びに寄り添ってあげて、満足する結果を手に入れてみることで、自分が安定します。

 

で。

 

容姿コンプレックスですよ。

メイクをどうしたらいいのか、整形するのか、何をしたらいいのか、しばらく彷徨ってみようと思っていました。試せるものは何でもやろうと。

自分がどういう顔つきで、何が似合って、何が似合わないかが全く見えていませんでした。なぜなら、コンプレックスが酷くて、みな、私の顔なんてまともに見てくれないだろうと思っていたんです。

 

だけどそこに向き合おうとした途端、気づかなかったことに気づかせてくれる人に出会いました。どうして自分が、自分の顔を受け入れられなかったのか、何を基準にして自分の顔を観ていたのかがはっきりわかりました。

 

やはり、プロの目は素晴らしい。そして、他人に教えてもらえることの素晴らしさったら!神様、ありがとう!の一言。

 

これも、私の顔を散々ディスってくれた人たちのおかげだ(笑)

 

私の変態度のレベルが上がっていくんですけどwww

 

桜色のネイルをしたのに、「わたし、これじゃない」感、半端ないです。

とても美しいのに~~~。

そうなんですよね。世間が美しいと思うものと、私に似合うものは違う。

 

私にとってコンプレックスとは、自分を変化させるチャンス。

凹んでいる気持ちが大きければ大きいほど、変わろうとする力も大きく働くのです。

 

 

憧れの職業、調香師さんにも会えちゃったよ!

 

もっともっと書きたいことがあるのですが、今日はここまで。

 

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