山に行く
やっと眼鏡を、作った。
震災で壊れてから、作りに行くのが億劫だったのだが
検診で引っかかったことと、夜道が見えにくくなったことが
決定打になり、重い腰を上げた。
眼鏡屋さんの女性がとても親切に色々と調べてくれた。
少しでも目が楽になるといいな。
気がかりのひとつがなくなったのはよきことです。
昨日、ブログを書いたのに
間違って、昔、お話を書くために作ったほうにアップしてしまっていた。
ま、いっか。
そして、山に行った。そういえば、先週も山を越えて能勢に行ったっけ。
私は、山派だ。登山が好きとかじゃなくて、山が見えるとほっとするという感じ。
落ち着くのだろう。
海だと、逆にはしゃいでしまうから、落ち着かない。
都会と山、私にはどちらも欠かせない。
自分について、最近発見したことが「子育てに向いていない私」だったわけだけど
それについては、ひとこともふたことも言いたいことがある。
その部分で私は本当に困っていたし、そこがポイントだとは知らずに頑張っていた私に対して、多くのスピリチュアルな人たちが、子育てについて説教したし、子育てが向いていないことを批判するようなことを言った。
どんなに、愛だの宇宙だのの話をしている人であっても
結局は常識まみれの日本人であり
「子育てが下手なのは良くないコト」
「子育てができる人や、夫婦生活がうまくいく才能こそがいいもの」
という風に思い込んでいるんだなあと改めて思った。
「子育てが苦手って、めっちゃ才能やん!」と本気で思っている人がいれば、私のこの才能(笑)をすぐに見抜いて、ほめちぎって、肯定してくれたと思うし、励まされたと思う。
誰もが、「あなたの母親としての資質については、疑いがある」みたいな目で見たし、そのせいで、気づくのも遅くなってしまった。というのも、きっと長い目で見ると正解だったとは思うけれど。
実は、今、私はこの才能を凄いと思っている。
子ども達は、不登校でも家が好きだったし、なかなか家から出たがらなかった。
その理由は、私がいつも「子どもとの共同生活」だと認識しており
家族関係によくありがちな、お互いの監視をしなかったことではないかと思っている。
それ故、彼らは、実家でありながら、一人暮らしの気楽さを満喫していたということだし、だからこそ、今は一人暮らしをしている二人が、全く困っていないようなので、そこは上手も下手もないけれど、わたしにとっては良かったと思う。
他人の思い込み、世間の常識の罠は恐ろしい。
いくら、自分が自分を肯定していても、「母親は子育てが上手になるはずで、ならないのは母親に問題があって、それを正すべき」というのを、誰彼となく、知らず知らずに、押し付けられる。
神様がどうとか言ってる人ほど、簡単にその常識の罠に陥って、アドバイスしてくるのだからややこしい。
「精いっぱい自分自身を生きたなあ」と思って死にたいので
キレる時はキレるし、怒る時は怒るし、それで人が離れて行こうとも
誇り高くいようと思う。
それはとても難しいこと。
優しくて、人から慕われて、甘えることも上手で、占いでもできて、教科書みたいな人になれば「こんな風に生きたら幸せよ」と人に認めさせながら、この世界の中心で生きていられるのかもしれないけれど。
私の世界は、私が中心だからね。
日本の嫌いなところは
「これが正しい人間です」というのを、空気でじわじわとわからせられるところ。
宗教が、それを生産しているところ。
いつの間にか、生活のやり方や、心の在り方まで指示されるようになった。
個性なんてどこかに行ってしまった。
なので、昨日テレビで見た山本寛斎さんのように、本気で突き抜けて(心でね)生きていきたいなあと思う日々です。
「こうしなきゃいけない」ということを一切言われないのね。
感動しますよ、それだけで。
ほんとの私に目覚めるってね
くだらない自分に成り下がることです。知ってる?
そこ、誰もきちんと伝えない。
不完全だからこそそこに、目覚めるんだと思うよ。
みんながいつも微笑んでて同じ生き方で同じような服装で・・・ってホラーじゃん。
もうね、おかしな頭の人たちが、その世界を描いでるんだよ。
自分の理想を作りたいと思ってる。気持ち悪いよ。
だから、わたしは、こんな風に生まれついたのだろうと思う。
異質なものとして。同調しない奴。だけど、偉そうで仕事もできて鬱陶しいやつ。
自分を曲げないし、依存体質だし、嫌味ばっかり言うしね。
そこがいいところだと、今の私にはわかってる。
久しぶりに、たくさんおかずを作ってみました。
山で野菜と塩麹を買いました。
お料理はいつも楽しい。
早く独り暮らししたい。
ロンドンもいいね。