いらない感覚
秋分です。
おはぎを買って息子と食べました。
私の祖母のことを思い出しました。
春と秋には必ずおはぎを作ってくれました。
祖母の血が流れているのか、わたしは料理が大好きになりました。
手作りの味が記憶されているということが
どれだけありがたいか、身に染みています。
昨晩のこと。
立て続けに「罪悪感を刺激してくる投稿」を読んでしまいました。
わたしは何故か「世間的なやさしさ」が理解できません。
そのせいで、孤独になりがちな人生だろうと思っています。
元夫の実家と無理に仲よくすることはできなかったし
子どものための「子ども会」だとかPTAもダメでした。
子どもが不登校だった子ともあるけれど、押し付けの優しさに対して
どうしても慣れることができません。
保育園などで率先してボランティアはやりましたし、大学生の時も4年間ボランティアをしていました。どちらも、ボランティアを構成している人たちの気持ちが「楽しい」で溢れていましたし、笑顔になれる活動だったので、参加するのは簡単でした。
けれど、「わたしたち、義務だからやるんです」「子どものために”やらなくちゃいけないでしょう”」というムードの中で活動するのはとてもしんどい。
あ、今も不登校カフェやってますけど、ボランティアという意識はないですね。
本気で誰かのためになることなのか、昔から続いていることだし、そこに住んでいるんだから参加して当然だという気持ちに「させられる」ことなのかで、私の参加意欲は変わります。
そうすると、世間が”罪悪感”を刺激して攻撃してくる感覚に襲われます。
参加しないお前は人でなしだ、という風に。
しきたりに従うことが善とされる世界に対して、従えない自分という世界が現れます。
私が苦しんできたのはその感覚なのでしょう。
現実をきちんと直視すると、私ほどボランティアを喜んでやってきた人間はいないんですけれど、考え方が合わない組織への協力を拒むことで辛い目に遭ってきた体験のほうが強く感じられてしまい、常に罪悪感にさいなまれてきたのでした。
基本的に優しすぎ、繊細すぎる私が、「合わない場所での活動を断る」ためには、非情にふるまうことが自分を救うことであり、納得してもらう手段でした。
でなければ、ずるずると引っ張られてしまう。
自分の時間と人生を奪われてしまう。
そのためには、相手に対して厳しくなるほかなくて、それが「人の気持ちがわからない人」という印象を与えたのだろうと思います。
「気持ちを汲まなきゃだめだよ」っていう人が、パワハラやセクハラを容認することは普通にあるし、自分にとって都合のいい人間の気持ちだけを汲むこともあるわけで。
たとえ少しの間、孤独が訪れようとも、わけのわからない、日本に蔓延している義務感からの優しさを、私は受け入れることはできない。
それは、スピリチュアルな人たちが「どんな人も美しい」「ジャッジしない」と言ってることと矛盾しないだろうし、誰彼構わず「失礼なことでも許す」ことが人として上なわけではないと私は思うのです。
自分自身を低く見積もりすぎていたし、他人からの低い評価だけを自分に取り入れて苦しかったので、それをやめる時が来たのかもしれません。
社会のほうが私の意識にやっと追いついてきた気もします。
会社での強制飲み会も減ってますし、子ども会もなくなっています。
それを寂しく思っているのは、そこで強者としてふるまっていた人たちだけ。
もうひとりひとりが自由にしていい時代になってきている。
自分の幸せを追求する世界になっている。
だからもう、つながれないことで自分を責めないで。集団にいられないことで罪悪感にまみれないで。
ひとりひとりでありつつ、ゆるやかにつながっていける。それを体現して生きていきたいのです。