ひとつの選択肢として
本当なら地元の神社のお祭りがあるはずだった。
今年は特別な楽しみもなくなってしまった。
恋の大切なきっかけになる夏祭りがないなんて
小説の題材になる夏祭りがないなんて
今年だけなのかわからないけれど
忘れられない2020年になりそうなことだけは
なんとなく理解した。
梅雨空は明けないけれど、大阪駅から見た空は美しく
何も問題ないように見える。
私の年代はもう、過去の夏の思い出を食って生きていけるかもしれないが
新しい時代を生きていくんだなあとふと思った。
浴衣はどういう時に着るのだろう。
普段着になればいいけど。
さて。
私が観察してきた日本は、選択肢の少ない世界だった。
学校がすべてを与えており、テレビがその情報の発信源となった。
読書によって海外の情報を得ても、身近にはそれがない、ということのほうが多かった。
今ようやく、多くの物が周りにあるように「見える」けれど
果たしてそれが選択肢になり得ているのかどうなのか。
相変わらず人々が、ただの選択肢としてではなくて「それしかない」
「それがあれば幸せになれる」「これが私の正しいものだ」と信じるためのものになってしまっているのではないだろうか。
私は、お産については、第一子は病院での吸引分娩で
第二子以降は自然出産を選んだ。
自然出産だったけど、入院設備の整っている産婦人科だったから
安心して臨むことができた。
母乳育児にもそんなにこだわりはなく、できる体力と時間があるならチャレンジしてみようか、ぐらいの気持ちでやってた。
玄米菜食だって、気功だって、なんだって私にはひとつの選択肢でしかない。
「それが一番いい」わけでもないし、「それしか生き残る道がない」わけでもない。
そこまで妄信するほど入れ込めないのは、自然派に限ったことではない。
ひとつのことに真っ直ぐになるのが人として正しい道だとしたら
わたしは外れてばっかりだ。
たぶん私には、まんべんなくこの世界を見たい、知りたいという気持ちが勝ってしまうのだと思う。
それがいいのか悪いのかは死ぬまでわからないのだろう。
私には、何かにすべてを捧げるというような生き方はできない。
結婚すらそうである。なんであんな制度に自分の一生を預けられるのかわからなかった。面白かったけど、一生をかけるだけの魅力はなかった。
便利で有利な立場になるにはもってこいの制度だけれど、誰よりも優位に立つために結婚する、ということが自分の魂を高めるとも思えない。
世の中で勝ち続けるために自分の欲や魂の望むことをあきらめるよりも
面白そうなことに首を突っ込んで経験を積みたい欲求を抑えられない自分を
この歳になってやっと認めることができた、というところだ。
スピであろうが自然派であろうが「これが正しい」で突っ込んでいく女性たちを見ていると、そこには「みんなと同じでありたい」「ひとりだけでやるのは寂しい」「みんなで一緒にいることで強さを感じたい」というものを感じる。
ひとりでやればいいのに、ね。と私は思う。
夫を巻き込まなくたって、家族を説得しなくたって、かまわないじゃない。
ママ友の家庭に首を突っ込まなくたっていいじゃない。
家族のスマホを勝手に見るような真似をしなくてもいいじゃない。
趣味なんだから一人で勝手にやればいいんだし。
わたしはそう思うんだけど。
そこはそこ、これはこれ。あれはあれ。
人生や生活のすべてを「自分の主張」で染めなくたって生きていける。
なぜか同じ価値観を共有した挙句にマルチ商法にハマっていく人がいるらしいと耳にするたびに、どうして他人と同じ食べ物を食べて同じ道具を使っていたいんだろうと思うのだけど、それって他人と自分が溶けあう喜びなんだろう、怖い。
同じ給食、同じ制服、同じ教科書で過ごした学校へのノスタルジーなのかな。
それよりも、自分だけの人生を歩く喜びを私は感じていたい。
それはあらゆる学んだもののミックスの上に成り立っている。
自分にしかできなかったあらゆるものの配合でできあがっていく。
誰かのレシピだけで成り立つ人生なんてつまらないと思わないか?
プリンアラモードのような人生。