心の中はいつも一人暮らしでいい
パイシートを揚げたら、油の味になったです・・・_| ̄|○
映画『メアリーと魔女の花』を観ながら、ゆったりと時間が過ぎていく夜です。
魔女になりたい人は多いけど、魔女が善人ではないんだなあ。
すべてに巻き込まれず、遠くから現実を見ている。
今どこにいるのかを見失わないことだ。
これが合っているかどうかはわからない。
相手が私に見せる態度は、相手の状態そのものでしかない。
鏡の法則というものを取り入れて相手を見てしまうと
まるで自分が相手を操作できるかのように勘違いしてしまう。
そうではない。
相手が見せてくれるものを、「わたしはどうするか」という態度に持っていく意思の力が必要なだけだ。
罪悪感を持たず、ただ「相手の態度を見る」
「ほ~こうくるのか、こういうエネルギーを持っているのか」
「じゃあ、私はどうする?」
怒ってもいい、悲しんでもいい、辛くなってもいい、寂しくてもいい。
そして、自分の歩く道を選ぶだけだ。
「どうする?」と思えた時には、相手と自分とは切れていて、別々にしか存在しない。相手が何をしていようが、無関係になっていく。
「相手とうまくやろう」と力んでいる時は、ずっと相手のことを考えてしまっているし、相手を操作するためのノウハウばかり知りたがってしまう。鏡の法則をやりたくなってしまう。
そして「そんなことできないわ」と思ったり「この通りにやってみたら私は救われるのかしら」と思ったりする。
今の私にはそんな暇なくて、自分を満たすことが先決だから
相手に投げるだけ投げて、あとは放置している。
そこまで関わりたい相手ではないし、わたしが愛を向けるのは、そこではない。
例えば、それが自分の顧客で、お金を払ってきてくれている人ならまた違った風に思うかもしれない。家族なら、もっと困ってしまうのかもしれない。
コミュニケーションを何としてでもうまくやらねばと思う相手がいたとしたら。
私は昔、自分がずっと他人に関心を持つことが私の使命だと思っていて
誰かとの出来事を心に縛り付けることを義務化していた。だから常にしんどかった。
でも今は、切り離してしまえる。
それが地震前と後の大きな違いかもしれない。
好きな時に考えて、好きな時にやめる。
自分を操作できるのは自分だけ。
孤独が怖い時には、いつも心の中に誰かを飼っていた。
孤独が少しずつ平気になっていくに従って、どうでもよくなってきた。
誰にもつながっていない時でさえ、わたしは自分と生きているし、誰ともつながっていないことなどない。
そして、誰かの「こうあらねば」を受け入れないことが私の課題なのかもしれないと思う。
「こうあらねば」に反論するのではなく、ただ受け入れないでいること。
それがなかなか難しい。
どうしても反論したくなる自分がいたけれど、そんなことしなくても、私は自分が間違っているなんて思っていないのだから、反論する理由はない。
相手がバタバタと動くのを観察することに専念すると、不安もなくなる。
誰もが誰かを不安がらせて動かそうとするのだから、不安をやめれば、誰からも操作されない。
不安に餌を与えない。不安になったら自分に戻ればいい。
戦いたくないけど、権力を傘に着て相手がやってきたら、それなりに挑まないといけない。自分が常に「教える側」「権力者側」なら、戦わない方法でされたらいいけれど。
ファイティングの「姿勢だけ」は必要だと私は思う。
相手に流されない、譲らない、媚びない。肚に力を入れて、ぐっとね。
いい女はそれができるんだよ。