巻き込まれない
地震の後の大雨。雨漏りの家もあるだろう。
早く止むことを祈るばかりだ。
地震の後に雨が降るのは、地震の熱を地球が冷ましているかのよう。
これで落ち着いてくれるといいな。
今日は朝から感情が揺れた。
昔の私なら、夜になっても必死で怒っているところだ。
いや、自分の中の一部分では怒っているがそれを否定しているわけではない。
無理やり許していることもないし、無理に冷静さを保とうとしているわけでもない。
ただ、静かに自分を見ている。
今は今の時間を楽しんでいる。
で、その自分のままで、朝のことを考えていた。
誰かの参考になるといいのだけれど。
いわゆる、職場の人間関係で、「話の通じない人」「こちらの怒りに対して冷笑する人」と対峙した。
よくあるアドバイスのパターンにハマると、「あなたが彼らを許さないから」「あなたが彼らに対して思い込みがあるから」「あなたが彼らのことを苦手だから」・・・だから、そんなことになってるんだよ!っていう自分責めをさせることになる。
本当にそうなんだろうか?と自分に問いかけた時「No!」だと思った。
今の私は、「誰か」のアドバイスにハマって自分を責めたりしない。
なぜなら、自分自身の思考と感情を丸ごと信じているからである。
それ故、私はこう考えた。
あの人たちは、私の感情が揺れることに対して恐れているのだと。
感情の揺れを許していない人たちは、あからさまに感情を出す人を警戒する。
理屈で抑え込んでコントロールしようとしたり、薄ら笑いを浮かべて「何ムキになってんの」といわんばかりの態度に出たり、なんとかして感情を揺らされまいとする。
私の怒りが当然のものであればあるほど、彼らは自分を守るためにわたしより上に立とうとする。自分が間違ったことを素直に認められない。
ということが、はっきりと視えた。
つまり、わたしは何一つ間違っていない、ということが理解できたのである。
悲しい気持ちにさせられて、溢れてくるものも抑えられなかったけれど、結果的に見れば、私は自分の気持ちを表現できて伝えたことで、すべて〇なのだった。
後は、相手がどう受け止めるかだけの話で、それは私の関わりのないところである。
そして、私は思った。
私の人生はなんて豊かなんだろうと。
感情を自由に表現できる、悲しみも怒りも、そしてその分喜びも。
悲しいこともあるが、逆に喜びを感じない日も少ない。
溢れんばかりの感情と共に生きることができる喜びを感じているのは私のほうなのだ。
人を冷笑して、怒りを理屈で抑え込もうとする人たちと同じような生き方は私にはできないし、したくもないわ!と思った。
そしたら、彼らのことなんてどうでもよくなってきた。
そういうことなのだ。
無理に怒りを抑えたり、感情を分析して、あーだこーだと「悟った風」になるのは苦しい。
ただ自分を味わって生きていくだけで、私を悲しませようとした人たちとは関わらない次元で生きていける。たとえ明日会うかもしれなくても、私の意識の中に、その人たちが入ることはない。
みんなが「望む世界」という時には、「嫌いな人と会わなくて済むのかな」「地球上に私だけを大事にしてくれる世界が出現するのかな」なんて思ってるかもしれないが、そういうことではないのだろう。
自分を大事にし、自分の世界を作っていくと
合わない人たちのことなど、意識の外に勝手に追いやられてしまうのだ。
自分を反省したり、愛が足りないのかななどと自分を責めることもない。
相手はそのままそこにいるだけ。明日も変わらず誰かを追い詰めているだろうけれど(笑)
自分に中心を置いて、自分自身を観察しているだけで、自然とそうなれる気がする。
愛とか優しさとかそんな抽象的でわけのわからない言葉に左右されない自分がここに
「いる」ことができる。今までで一番、生きていて楽だよ(≧▽≦)
今日の出来事が私に教えてくれたのは、「私はとっても豊かな人生を送っているよ!」ということだけだった。怒りを感じられる自分に感謝しかない。生きている実感があるのは、感情があるからなんだもの。
さて。
明日は引っ越し
これからラストスパートです。
雨の中、来てくださる引っ越し業者の人たちってすごいよね~。
明日も素敵な一日を!
読んでくれてありがとう。