ふりかえり
秋になっても暑い。
いきなり冬になるのだろう。
まるで、機嫌がよかった人に急に叱られるみたいに。
それでも、食べ物の季節は流れてくる。
先日は、豆腐ときのことツナの鍋をした。
美味しいものを食べると元気が出る。
二日続けて家に帰るのが嬉しかった。
さて。
私は、独占欲をこの人生において、ずっと削がれてきた。
私自身が、誰かの言いなりになりたくないもんだから
それは当然と言えば当然なのだ。
それに伴って、私の周囲はコントロール欲の強い人ばかりが集まってくる。
私という存在が珍しいのか、コントロールされそうな雰囲気だからか知らないが、寄ってくるんだな。
わかりやすく寄ってきた人は排除した。
それぐらいはできた。罪悪感も一緒にあがってきたが、今は罪悪感は少ないと思う。
ある場面においては、私はマゾ体質だから、どうしたってサド体質の性格の人が寄ってくる。支配してやりたいとむき出しにして、やってくる。
けれど、尊敬できる人以外に対して従うことなどできない。
コントロール欲の強い、精神性においてのサド体質の人は、それがわからないようだ。
遊びの中で、Sの人は、支配しているように見せかけて、実に繊細に相手を見ている。そうでなければSMの遊戯など成り立たない。
しかし、自分のコントロール欲に溺れている人たちは、自覚がないから、相手に押し付けるばかりで、ちっとも面白くない。
私がこれから話題にしたいサド体質ってのは、いわゆるパートナーや子どもを支配する人たちのことだ。
相手の魂を抑圧するSである。
日本では、そういう人ほど重宝され、成功し、幸せをつかみやすい状態になっている。
どれだけ子どもをコントロールできるかが、教育の成功なんだもの。
だから、私の思想と合わない。
誰かの行動を常に監視し、自由すら掌で調整する。
そういうあり方を私は醜いと感じる。
夫を監視する妻が幸せになり、子どもの気持ちまで把握しようとする親が成功する。
何をもって幸せというのかはわからないけれど
少なくとも本人は満足なのだと思う。
自分と葛藤するよりも、他人を操るほうが簡単だ。
葛藤するだけの力がないのだろうが、得てして男も子どももそれに従うほうが楽なのだから、この国で男がちっとも大人にならないのも仕方がないのかもしれない。
結婚している限り、わたしは、夫への信頼を疑ったりしなければならず
そういう自分がとても嫌いだった。
夫の気持ちも行動も私の物じゃない。わかっているのに、一緒にいる限り私は醜くなり続けるだろうと思った。
自分が惨めで、自分を嫌いになり続けるのに耐えられなかった。
誰かを苦しめる存在になどなりたくない。
生きている限り、避けられない問題だが
どこまでできるか、試してみたいと思った。
それが離婚の始まりだった。
ような気がしている。
一緒にいちゃいけないって心が叫んでいたのを覚えている。
コントロール欲、独占欲の強い人たちは、そんなこと微塵も思わない。羨ましい。
束縛しなくても、束縛されてしまう関係がいい。
お互いに。