セカンド虐待
洗濯機を二回回して窓を拭く。
これだけのことが贅沢に思える。
照り付ける太陽で室内は明るい。
穏やかなお盆を過ごすことになりそうだ。
私がここのところ、ひとつ抜けたのは
幼少期の虐待(と言えるか言えないかわからないようなことでも)の記憶は、手を変え品を変え、自らが加害者となるように向かっていくのだなあということがわかったからだ。
毒親と呼ばれる人たちも、実は被虐待児だったりする。
自覚せずに親になり、自分がされたことを繰り返す。
一番簡単なところでは、部活でしごかれた後輩が、辛かったと自覚できず、先輩になった途端に「しごきはいいことだ」と後輩をしごきまくるというのと同じだ。
この図式はあちこちで繰り広げられており
心理学方面でも当然のようにそれがある。
つまり、精神的にクライアントを追い詰めるというものだ。
自分が成功したから、結婚できたから、子どもが生まれたから、お金がどこかから降ってわいたから、なんだかうまくいったから・・・。
そういう理由で自分を正当化した後に、人は、人を、洗脳しはじめる。
「私と同じような考え方で生きたほうがいいんだよ」と。
それはまるで、過去に自分がやられたことの復讐のようだ。
自分が生きていたことへの確信を「やっと持てた」ことによる、脳のバグだと私は思う。
「辛かった私でも成功できた、だからあなたも同じように頑張ればできるはず」と思い始めるのは、自然な流れのようである。
わたしはそれをセカンド虐待と呼びたい。
虐待で傷ついた人を集めて「私だってこんな風になれるんだもの、あなたたちがそうならないのは、虐待にこだわったり、いつまでも怒ってたり、社会に腹を立てているからよ。あなたが変わらないからいつまでも同じところにいるんでしょ」と心理的虐待を始めるからだ。
どんなにきれいな言葉を使ったところで、それは、個人の思想の押しつけでしかない。
そして、そういう言葉に寄っていくのは、いつも被虐待児たちなんだ。
掃除したから、浄化したから、いつも感謝してるから・・・だから私は成功できた、というのが、その人たちの言い分で、でも悪いけど、それ統計でもなんでもないし、その人の成育歴や頭の良さ、実家の太さなども入っていない。
「結果」にのみコミットされていて、事細かに思想の順番までレシピになっている。
わたしは純粋に怖いと思う。
精神世界系と心理学系と成功哲学系が寄ってたかってその方法を採用し、弱ってる人たちからお金をいただくことに成功してきた。
依存させたり、抑圧したり、あるいは、余計にしんどくなった人もいるだろうけれど、そういう人たちは、目に入らないか「クライアントの出来が悪かった」と切り捨てられて悪しきモデルとして登場させられたりしている。
以前は、まっとうなことを言ってた人が、奇跡的な出来事が起きた途端に発言がぶれてきたのを見た時、「これだ!」と私は思った。
被虐待児が、結婚して子供を産んだとたん「私も偉くなった」「子どもに言える立場になった」とばかりに虐待を繰り返すのも、同じだと思った。
そこにあるのは「自覚のなさ」だと思う。
虐待されたのに、「親は悪くない」と思っていると、親と同じことをしても平気になるのは当然のこと。
自分の身の上に起きたことを客観的に眺め、相手の分析をしてはじめて、自分が同じことをしないように気を付けることができる。
今は必死で他人に心理的虐待を繰り返す人たちがSNSにたくさんいて
「うまくいく人いかない人」とか「運のいい人悪い人」というラベリングをしている。
何の意味もないそのラベリングに惹かれて読むのは「うまくいってない人たち」だ。
説教して悦に入ってる様子は、虐待親と何ら変わらない。
誰かを励ましたり、誰かを勇気づけたり、元気にするのに、なぜラベリングが必要?わざわざ、弱ってる人に対して「あなたの運が悪いのはあなた自身が悪いんです」って結局その人を痛めつけることでしかない。
挙句の果てに「行動しないから変わらないんだ」と言う人が、「わたしはいいことを言ってます」と思ってて、不思議で仕方がない。
アドバイスなどしょせんアドバイスに過ぎないと知ってる人なら、「行動しなきゃ意味ないんだよ」みたいな脅しはしないだろうと私なら、思うよね。
そういうセカンド虐待的な人たちから距離を置くことで
私はずいぶん楽になった。
セカンド虐待をする人たちは、寂しい人たちを依存させようとするから
なんやかんやとお節介を焼くことで、その人が寂しさに直面することを避けさせる。
お金のために。
寂しいことは悪いことではない。大切なことだ。
毒親から離れたと思ったら、セラピストが毒親の代わりをしてた、なんていう事例がゴロゴロしてるんじゃないかなと思う今日この頃。
きれいごとや罪悪感を刺激するような説教から離れてみよう。
そしたら現実がいきいきと迫ってくるよ。
自分の人生を生きよう。誰かの人生を埋めるための道具になるな。