父の日だったらしい
今日は父の日だったようで、スーパーにはそのような買い物の姿がたくさん見られました。
久し振りに父のことを思い出していました。
亡くなってからのほうが、たくさん話をしたかなあ。
生きている時は話せなかった。
「お父さんがいらっしゃいますよ」と何度か「視える人」に教えていただいたから、きっといるのだろうと思って話しかけていました。
今はどうしているやら。上のほうに行ってしまったのかしら。
昨日、張り切って本の整理をしたものだから
今日は全く動けずにいました。
かろうじて、朝はマンションの掃除に出たぐらいで、何とか夕方に近所の無印カフェに。
気が付いたら、隣の席の客さんが3人目でした(笑)
さきほど読んだ本の中に「無力」という言葉が出てきました。
写経の中にも「無」という言葉が散りばめられています。
今の私は「無力」を思い知らされながら生きています。
息子たちが不登校の時には、#不登校は不幸じゃない、を実践していました。
もっと言えば、不登校でも幸せになれる、という毎日を過ごすために生きていました。
そして、今は、自分自身の幸せのためだけに生きられるようになりました。
幸せになるって難しいですよね。
愛し愛されることはとても難しい。
どんなに愛したとしても、相手のあることは、自分ではどうにもならない。
どんなに努力しようが、美しくなろうが、恋の達人を参考にしようが関係ありません。
素晴らしい育児をしたと思っても、子どもに去られることはままあることです。
そんな時、自分を正当化したり、頑張ったのにと思ったり。焦って泣きたくなったりします。時には「あなたにぴったりの人が現れるから」と慰めてもらい、「相手とはレベルが違ったのだ」などと思いたくなることもあります。
だけど、何となくですが、そういうことではなくて。
生きるということは、無力なものだと知るコトが必要なのかもしれません。
父だって、もうちょっと生きたかったに違いない。
どういう訳だか、あの日、あの時間、魂が抜けていった。苦しい肉体から出て行った。
それは誰にも止められなかったし、なぜか母のいない時間だった。
思い通りにならないことを、何かのせいにして納得するのもありだけど、でもそれでは行き詰ってしまう気がするのです。
わたしは努力の人だから、どうしても「どうにかならないか」と思ってしまい、日々をその思考で潰してしまうことが多々あります。夫のことも息子のことも、私はどうにもできなかった。「どうにかしてやろう」と思っていた時の苦しさと、手放す時の苦しさと。そして、その後の「諦め」と。
「どうにもならない」の経験があることが、人を強くするのだと私は思っています。
怒りも悲しみも味わって去っていくものだと思えば、出来事は私の中を風のように通っていくだけ。
通っていく最中の、嵐の体験を、何度も何度も繰り返しながら生きていく。
「私ってホントにゲスだな、ズルいな、汚いな」と思いながら、無印カフェでコーヒーフロートを味わっていました。
それは少しだけ苦くて甘い人生の味がしたと言えばカッコいいよね(笑)
抗えない人生の一ページに、人を愛した記憶をいっぱい書きたい。
それが私の願いです。
きれいにまとめたなwww
明日は雨模様。少しは動けるといいけどね。
読んでくれてありがとう。