風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

人と拗らせることなど

今日は一日家に居ました。

色々考えることがあって動けなかったです。

 

記事を書いて仕上げたのですが

アップするのはやめました。

 

私が言いたいことは最後の最後にまとまってた。

 

・・・そして、教える教えられる関係じゃない友達がいい。

そんなこと言わなくていい友達がいい。

お互いに馬鹿なこと言いながら、つらいことを吐き出しながら励まいあいながら生きていくことはできないのだろうか。

痛みがあるのなら、絆創膏を貼ったらいいし、黙って手当てしたらいい。

お腹が空いているなら、食べ物をもって集まればいい。

「どうしてこうなった」とか「これがよくない」とか「これやれば」とか、そういうの、もういらなくない?

 

「それは大変だったね」「そうなんだね」で終わる会話を私はとても求めているのかもしれない。そして、それができるのは、今は男性が多い。

男性はそういうの、すぐに切ってくれるし、「馬鹿だな」で終わらせてくれる。

とても楽だ。子育てに無駄に突っ込んでこないし、関係ないところで遊べる。

 

過去も未来も期待されなくて、ただの自分でよくて、なにひとつ欠けてないんだよって思わせてくれる人はとても貴重だと思う。・・・(抜粋終わり)

 

何かを教えたいのなら、教える場に行けばいいと思うし

教わりたいなら個人教授でいいような気がしてる。

不登校の親の会に出入りしていた時に、教えたい人たちがいっぱいいて

結局その場を占有してたことがあった。

困った話をしたい人が疎外されて、知ってる人のひけらかしの場になってた。

そういうの、とても居たたまれなかった。

 

聞きたい人もいるかもしれないけど、聞きたくない人もいるかもしれない。

そういう配慮は求めてはダメで、話してる人を気持ちよくする配慮だけが必要なの?って思った。教師が来るとたいてい場を占有するのだから手に負えない。

 

そういう時に、違う話題にして逸らせたり、違う意見をぶちこんで場を乱す行動をしたいと私は思う。それを間違いと言われることはよくわかんない。

 

私が主催者なら、必ず話をぶった切る。話したい人につなげる。

そして、教えたい人は別室でどうぞっていう。

そういう考えなもんだから結局親の会には行かなくなり、自分で創った。

 

親の会では多くの親が正解を求めていて「教えて教えて」状態になるのが常だ。すると、教えたい人がどや顔で教え始める。自慢大会みたいになる。「正解がない」という正解に辿り着かなくて、成功例を追い求める旅をし続ける。自分の子育てを自分で考えなくなって家に戻っても何一つかわらない。人に自分を預けていく。それが続いていく。めっちゃ嫌だった。先生の言うことが全部正しくて、なにひとつ突っ込んじゃいけなくて、疑わずに覚え込むことが「素直でいい生徒」っていうの、一番嫌い(笑)

 

自分で調べて自分で考えて生きていくことをわたしは伝えたいんだが。

 

らいぶらりーをするのは、そういうことなのだ。改めて思う。

好きな本を好きな時に好きなだけ読む。

自分で選んで手に取るだけ。

強制と矯正がなくて、共生のある場所がいい。

「これどう?」「わたしはそうじゃない、こっち」と素直に言い合える場所がいい。

ぶつかることや反発があっても、それをその人の性質や性格や本質を攻撃するネタにしない場所がいい。スルーできるほどの開放感があればいい。

理想主義者だと思う。でもそこは動かせないんだなあ。