わかちあい
ミスチルの「花火」が流れてきた途端
泣きながら運転している危ないおばさんになった。
夏が終わるまでに何度「花火」が聴こえてくるだろう。
そのたびに私は泣いてしまう。
そして、夏が終わる頃、涙が枯れていることを祈っている。
先日から、子ども絡みの相談をあちこちにしてみた。
「外国で、日本人の面倒を見ているような人を知らないか」というシンプルな問いのつもりであった。
ところが、海外経験のある人たちからは思いがけない言葉が返ってきた。
「まずは日本がいいんじゃないの」「本人から相談が来れば乗るけど」
わたしはとても驚いた。
私の問いはシンプルでも、答えるほうが勝手にレベルを上げてきているではないか。
確かに慎重に答えるべきものかもしれない。
しかし、これほどまでに、海外で暮らした体験をしてきた人たちが、「無理だよ」と言うとは思わなかった。
ただ、子どもと関わってくれていた人は真剣に探してくれたし、もっと幅広い情報を寄せてくれた人もいた。
人によって、私の質問の捉え方は様々で、答え方も様々で、まさにこれが「その人の本質を映している」のだなあと思った。
勝手に子育て相談だと勘違いして、「あなたの子育てはどうだこうだ」と講釈してくる人もいたし、「あなたのそのやり方が間違っている」というようなことをやんわり言う人もいた。
最近、このような現象によく出会うようになった。
私が発している単なる「言葉」や「気持ち」に対して、ほんとに100人いれば100通りの考え方が返ってくるのだ。
私は何も動かないし、私は何一つ変わらないが、それぞれの「聞き方」「解釈の仕方」があまりにも「私が発している言葉の本心」とかけ離れていくのを見るのが面白くて仕方がない。
昔は、「私が勘違いさせているのか」と思って、何度も訂正してみたり、言い直してみたり、謝ったりしていた。
けれど、そうではないのだった。
みな、適当に「自分の主張」を混ぜているだけで、私には何一つ罪はなかった。
文学作品の解釈が人によって違うように、私の問いかけに対する答えもまた、様々で当たり前なのだと思った。
それにしても。
日本人だからなのかわからないが、「わかちあい」がないことに改めて驚く。
私は、自分の経験したことで、教えられることはすべて教えられるし、秘密にすることもないし、「あなたが間違っているから教えてあ~げない」なんていうこともしない。
不登校カフェをしているのも、情報の共有が何より大事だと思うからだ。
情報が行き渡らないために、孤立している母親の多さを私は知っているからである。
「あなたの子どもだけですよ、不登校なんて」と言われたり、「行ける高校なんてないですよ」と脅されたりしている。それはまさに、私が相談を持ちかけた時に還された言葉たちと被ってくる。
知らないのか、教えたくないのか。わからないけど、その人たちには「情報を気安く与えること」に対するブロックがあるのかもしれない。
そして、それよりも、相手の考え方を批判して、自分を優位に立たせることのほうに力を注ぐほうが楽なのかもしれない。
もっとわかちあえる社会にしたい。
タブーとか秘密をなくしていきたい。
被災したことに対して、正しい法律の知識や保険のことを教えてくれる人たちがいた。「いや~あなたがそういう生き方をしているからであって~そういうことは~」などと説教かましてくる専門家は一人もいなかった。
どんなことに対しても、そういうフラットな情報の与え方をしていきたい。
特に不登校や引きこもりの悩みに対しては。
親を批判しても始まらない。必要な情報をどれだけ「分かち合えるか」が勝負だと思う。そこに、「教育論」を持ち出されても何も解決しないのである。
体験や経験を分かち合っていけば、可能性が開けていく場面も増えていくだろうと思う。
まあ、ある程度「秘密にしたい層」というのがあるのは経験済みであるから、そこは仕方がないと思うけれど。自分の子どもが不登校であることが「恥」だと思っている「先生」と呼ばれている人たちや、何を気にしているのかわからないが、ちっとも答えてくれない人たちがいるのは確かだから。
そういうケチ臭さが「集団を保つため」に必要だと思っている人たちもいるんだろう。
キリストや仏陀がすごいのは、秘密にしなかったことだし、「この集団じゃなきゃ教えてあげないよ」というのを嫌ったことだと思う。
開示すること、分かち合うこと。
それができれば、家族の闇も減って、虐待やいじめも減るんじゃないかと私は密かに思っている。
今日やっと食卓を買うことができた。
落ち着いてご飯を食べられるのは素晴らしい。
明日もいい日でありますように(#^^#)