風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

幸せの意味

この三連休の半分は仕事の準備でした( ´∀` )

せっかくテストも終わったのに~

慣れるまでは仕方がないですよね。

 

さて。

 

「依存をやめれば幸せになれる」とか「依存をしなければ大好きな人とカップルになれる」などの「幸せを目標にさせる」方法が色々と話されています。

ずっとずっとその言説に違和感がありました。

 

依存しない人になれたら、別に誰かと一緒に居たいと思わないんじゃあ・・・ってね。

 

最終的に「好きな人と一緒になる」を目指すのは

それは結局依存じゃんって。

 

昨日、ある言葉を目にしました。

「毎日好きと言われてないと不安になる人」という言葉です。

 

これも、私にはう~ん、ちょっと違う・・・んですよ。

 

だって、人の心は変わるんです。

どんなに自分自身が依存をしない人になろうが、共に暮らす人の気持ちが変わらないことなんて絶対にありません。

日々、人の心は変化します。

そしてどんなに、毎日好きだと口に出したとしても

明日には町の中でびびっときた女性に出会って口説いているかもしれない。

それすら誰にも予測できないわけです。

 

じゃあ、どうして「毎日相手の気持ちを信じなければ安心できない」が「良くないこと」とされるんでしょうか。

それって当たり前じゃないですか?

少なくとも、「相手が絶対に裏切らない」と信じている人が、裏切られた時の気持ちを考えると、「毎日相手の気持ちを確認する」ほうがずっと安全ですよね。

 

結局「相手を無邪気に信じちゃう」人も「毎日相手の気持ちを確認しちゃう」人も

相手に依存していることは間違いないわけです。

 

では、何が幸せだというのでしょうか。

 

それは、「相手がどんなに心変わりしようが、自分の価値は変わらないことを知っていて、相手の変化を受け入れられる」ことだと思います。

 

相手と結ばれることが幸せなんじゃないんですよ!

 

それはそれ。一時の幸せです。

もし、それが最終的な幸せだと思っているなら

あなたは普通な人だし、依存心があるってことです。

 

別に、相手の気持ちを確かめなきゃいられない人と何も変わらない。

 

「この人は私と一生一緒にいてくれると約束した」だけですものね。

 

10年後に同じ気持ちかどうかなんてなんの確信もないです。

 

いちいち相手に確かめないとそれを不安と思うか、10年後の心変わりで激怒するかの違いでしかありません。

 

「人の心は日々変化する」ことに対して、自分の心が柳のように揺れながらも元に戻れるかどうか、が幸せのカギだと思います。

それは、自分の心が揺れることも許すこと。

「結婚と言う約束をした」としても、自分の気持ちが揺れた時に否定しないことです。

 

大人はよく言うじゃないですか。

「学校へ行くってお前、約束したのにどうして朝になっていかないって言うんだ!」みたいなこと。

人の気持ちはずっと同じではないんです。

大人は「同じ気持ちでいなきゃいけない」と頑なに思い込んでいる。

その「同じ気持ち」に依存しているんです。

 

変化する心を認められるかどうか、は心の柔軟性だと思います。

 

制度に適応するような「変わらない心」「忠誠心」ばかり重んじていては

生身の人間を理解できません。

 

心は引っ付いたり離れたりします。

大きく離れることもあります。

それを知っている人は、不安になって確かめたくなるだけです。

おおいに普通のことであり、人間らしいことです。

ただそれだと、相手との関係性にひびが入りやすい(その不安をわかってくれる人ならいいけどね)です。

 

「わたしは、パートナーの気持ちが私にあることを知ってるんで、近づいてきた女は全部潰しま~す」って言う人のほうがずっと人として危険だと私は思うんですけど(笑)

 

パートナーが一生自分から離れない気持ちになっている「はず」という決めつけですよ。人の気持ちが変化するということを「知ってて不安になる人」よりずっと怖い。

 

「私が素晴らしいから私から離れるはずがない」「この地域は素晴らしいから去っていく人は異常」「この学校は素晴らしいから来ない子どもがおかしい」

・・・

依存しないって言ってる人の心の中ってそういう感じ(≧◇≦)

 

めっちゃ怖い。

 

だから、私にとっては、いわゆるメンヘラと言われている人たちのほうがまともじゃないのかということになります。

 

個人の幸せを本気で考えるとしたら。

それは、自分自身も含めての、人の心の揺らぎを認めることです。

つまり、制度に合わせることのおかしさを知ってることです。

揺らぎを内包した制度にしない限り、人は幸せを感じにくいということです。

 

結婚していても幸せを感じたいのなら

結婚という制度の中にいる自分と

心がその制度から逸脱することがある自分(相手)を

どちらも認めて暮らしていくこと。

そのためには、自分自身を信じ切ることが必要で

ある意味怖いし、強さも必要です。

 

そして揺らぎを認められる人は

制度のおかしさにも気づきやすいですし

「これでは人は幸せになりにくいよ」と思えるはずです。

制度に合わせられる人間になることを目標にする人は

メンヘラだとかコミュ障とか色々名前を付けるけど

制度に合わせようとするお前のほうがおかしいんじゃね?ってことにそろそろ気づかないとね。

 

いや、制度全てがダメなわけじゃないですよ。

人の心の揺らぎを想定しない、想定することを禁じている制度があるってことです。

無邪気にこの社会を信じ切ってしまう人の言うことは

売れるしまともに見えるけど

え?それほんと?と疑う気持ちを忘れないでほしいです。

 

「集団の幸せのために我慢できる自分になる」のが幸せなのか「集団は集団、わたしはわたし」と思えるようになるのが幸せなのか、です。

 

考えてみてくださいね(#^^#)

 

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