風に吹かれて~誰のためでもない人生の記録~

つまづきながらも、楽しく生きているアラフィフの人生を日々記録したブログです。今、少し悲しいとか、辛いとか、思っている人に、少しでも笑顔になってもらえますように。

レンタル「怒ってくれる人」

おはようございます。

 

台風の圏内で台風の影響がさほどなかった人が「たいしたことなかった」と言ってるようですが、風台風はこっそりとたくさんの爪痕を残しているはず。

二年前の大阪もそうでした。

街路樹がぼきぼきに折れたり、学校のシャッターが壊れたり、地味に多くの被害が(報道されないだけで)ありました。

これからあちこちの修理に時間がかかることでしょう。

家の修理にお金が必要な人もいるはずです。昨日の夜に命の被害はなくても、日々の生活を削られる被害はあって、それは決して目に見えない。

被害と思われないところが、怖いですよね。

 

さて。

 

昨日の続きになります。

 

母親からもらった、私にとっては必要がなかったもののひとつが

「代わりに怒ってあげる」です。

母は、自分で意見を表明するより、「同じ考えでいてくれる娘に言わせた方が楽」ということに気づいたようで(笑)

あらゆる場面で、私に「怒り役」をさせるようになりました。

私をよく知ってる方ならご存知でしょうが、私は、気が小さいし、どうでもいいことに怒鳴るような人物では決してありません。

けれど、「母の正義を満たすため」に父親と、したくもない喧嘩や口ごたえをたくさんしてしまいました。

その結果、私は人と繋がる時に、「怒りを代わってあげる」というやり方をするようになったのです。

 

わたしは、怒鳴る人ではないけれど、たとえば男だからって甘やかしたり、何かを捻じ曲げて力の強い者の意見が通ることに対しては、快く思わない人間です。

今ではそういう女性が意見を普通に表明してくれるようになり(若い人は素晴らしいです)私は決しておかしい人間ではなかったとやっと思えるようになりましたが

子ども時代は、セクハラもパワハラも当たり前で、誰も意見を言わなかったものです。

そのため、「あなたなら怒ってくれるよね」みたいな期待を私に被せて近づいてくる人がいたのです。

 

家庭の中での自分の役割が「母の代わりに意見を言ってあげる人」であったため

社会の中でも同じことをすることで、自分の存在を得ようとしていました。

それはまさしく「自分を犠牲にすること」だったのですが、自分ではたいしたことないと思い込んでいました。

 

あれは、中学生の時。合唱団に所属していた私は、ある先輩の熱意に取り込まれて、後輩たちと自主練習を企画しました。

今から思えば、当時の指導者は普通の小学校教師で、有名な児童合唱団が雇っているような素晴らしい音楽家ではありませんので、うまくなりようがないわけですし、諦めるのが賢明だったのでしょう。

それでも、なんとかしたくて先輩に協力したところ、指導者への反逆とみなされて、私だけが退団扱いになったことがありました。

 

どれだけショックだったか。

私は常に、他人の身代わりになる、「怒ってくれる人」でした。

私自身に実力や行動力や人をまとめる力、エネルギーがあれば良かったのでしょうが

残念ながら私には「身代わり力」しかありませんでした。

 

二度と他人の代わりに表舞台で「怒ってくれる人」を演じたりしないと決めたものの

他にどうしていいのかもわからなかったのも事実です。

世の中には、陰で不満を言い、「上にはしぶしぶ従ってるけど、本当の私はちゃんと考えてるんですよ、辛いんですよ」と思ってる人が山ほどいます。

今の私ならわかります。それは嘘だって(笑)

言えない時点で「従うだけの人」なんですよね。

 

そして、その人たちの意見を「代わりに申し立てしてげる必要はない」んです。

 

例えばそれを弁護士にお金を支払ってしてもらうなら、別です。

だけど、友達だからって代わりに発言してあげる必要はどこにもない。

陰で友達の心に訴えることで、自分の罪悪感を晴らす。

自分が悪者にならないために、意見を言ってくれる人にその役割を押し付ける。

 

今も、それを子どもにやらせてる親を目にする機会はたくさんありますよね。Twitterとかで。「うちの子がこう言ってました!」と自慢げに話す親たち。

なんていうか・・・もう・・・無自覚な卑怯さ。

 

私には、私の代わりに怒ってくれる人は誰もいませんでした、当たり前だけど。

怒りたいけど言えない・・・という弱い人ばかり寄ってくるようになったのです。

私は、そういう人たちをまとめて率いて支配するということはできなかったので

常に個人で他人の怒りを抱えていっぱいいっぱいになりました。

 

様々な経験を経て、私が代わりになるのをやめて

一対一の場で、怒りを吐き出してもらい、一緒にその場で怒るというセラピーのようなものを私はやるようになり、それが不登校の親の会などでは役に立つようになり、自分だけが損をして痛い目に遭うことはなくなったのです。

 

けれど、例えば「わたしがもっと強ければ、弱い人の代弁者になって戦えたのではないか」と罪悪感にかられたり、自分だけが痛い目に遭ってしまった過去を思い出してしまうことはまだあります。

 

そして、どうしても「人から嫌われたくないから怒りを表現できない」という人を見抜いて近づいてしまう(無意識に)のをやめられないのです。

つまりレンタル「怒ってくれる人」を、ボランティアでやってしまう癖が抜けない。

 

それは、自分自身が、母の代弁者になってしまったことへの悲しみと

自分自身の怒りを誰にもわかってもらえなかった怒り(私を代弁してくれる人はいなかったので)

そしていつも犠牲になってしまう自分への怒り

 

だいたい、陰で怒ってる人は、決して自分が損をしたくないのでね。

代わりに相手に意見を言っても、平気で「あら、わたしはそこまで怒ってないわよ」と言うんです。逆に、私を利用して、相手と仲良くなるんですよね。人はどこまでも卑怯になれるものです。

 

まあ、母親は悪くないわけですし、弱さを私に丸投げしてくる人も悪くないわけです。っていうか、怒った私を悪者にする結末までできてるwww

だとすると、責めるのは自分自身しかなくなるのですよね。

 

やっとこの件で「あなたのお母さんはひどいことしたよね」と言ってくれる人がいてストンと救われたのが最近で、だからこそ、ここまで客観的に書けるようになったのだと思うのですが、弱さを丸投げしてくる女性と友達になるのが苦手なのは母親に起因していることは間違いないです。かといって、自立した女性と仲良くなるのも苦手(慣れてない)←致命的。

 

男はその点、「自分でしっかりしなきゃ」と思っているから、付き合ってて楽なんです。愚痴を聞いても負担にならないし、何を言ってもスルーしてくれるし。まったく違う人種って感じ?

常に誰かの後ろに隠れて、「私は被害者なの」という意識で生きている女性の愚痴は、私にとっては「母の再来」なのでね、慣れてるからいいけど、しんどい(笑)

 

そういうわけで、レンタル「怒ってくれる人」を無料じゃなくて有料でやろう・・・というのはジョークですが、今は引きこもって一人なのでとても精神的に良き、という話です。

 

誰もが自分の言葉で、自分の責任で生きるようにならないと

誰かを犠牲にしてしまうということを知って欲しい。

クビになった職場では、私が色々言ったことで、周りもどんどん意見を言うようになったという経緯がありました。言いたかったことを遠慮せずに言っていいんだという空気を作れたことだけでも、私はそこにいる意味があったなあと思っています。

仕事を辞める頃には「もうここは大丈夫だ」と思いましたし、私自身は痛い目にあったんですけど、それは決して彼女たちの犠牲になったわけではなく、そういう意味でも勉強になりました。

 

それでも、わたしは、私を利用してきた人たちへの怒り、それを受け入れた自分への怒りがまだまだ解消できていないのが課題。

これがまた、身体に響いてるのよね。

 

女性たちが堂々と自分の意見を、子どもや誰かに代弁させずに言えますように。

そういう社会に変わっていきますように。

 

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